2005年1月23日更新


 


 行者の山・モンセラート

巡礼の目的

昨年10月に引き続き、5月8日から14日までスペイン・カタルニア州・モンセラートに巡礼してきた。総勢21名。前回の巡礼報告のタイトルは「神の山・モンセラート」だったが、今回は「行者の山・モンセラート」と名づけることにする。案内本などに詳しい内容が書かれているので、ここでは私の「主観的な印象記(U)」ということになる。海外から巡礼者としてモンセラートを訪れる人の中で、あの天使が鋸でギザギザに削ずられた山にへばりついて登山・巡礼した者はおそらく私たちのグループ以外にはいないだろう。巡礼者のわれわれ自身は一時「行者」になったように、比叡山を千日回峰する行者のような気分でいた。現地の人でも隠遁所まで足を伸ばすのはそう多くはいないというから。同行者である三原市在住のシスター・ミリアムは、標高1000bある聖十字架(サンタ・クレウ)隠遁所に隠遁していたエスタニスラウ神父の弟子として、彼の世話をし、山の界隈を熟知していたからこそ出来た訪問だった。今回の巡礼はサンタ・クレウのみならず、千年以上も前から隠遁者たち、行者たちの隠棲生活をした跡、洞穴・洞窟に接することを一つの目標にしていたのである。時代が変わっても、モンセラートには瞑想者を引き付けるものがあり、まさに「行者の山」でもある。いまは、ベネディクト会修道院の管理下にあり、時課の祈り、ミサ、少年合唱団などによる美しい典礼で有名だが、私にはそれら一切を支えている霊的力は隠れた隠遁者達から出ていると感じている。霊的な力はいつも隠れたところから発している。父なる神が隠れておられるように。ギリシャ正教の聖山・アトスはその極みであろう。
 巡礼中、禅の「十牛図」の講話をしたので、今回の旅を、無理をするかもしれないが、十牛図に当てはめて巡礼記を描いてみよう。

黒の聖母

 さて、出発は2006年5月8日の午前KLMで関空からアムステルダムへ、アムステルダムからバルセロナへ、そしてバスで宿舎に着いたのは現地時間ですでに深夜。時差が8時間ある。まる一日の飛行機や乗り継ぎの旅であったことになる。出発の前々日、NHKで世界遺産の番組放映があり、バルセロナのサグラダ・ファミリアを紹介していたので巡礼者たちもワクワクしての旅行であったことだろう。私の場合、前日、古本屋でたまたま中沢新一著『バルセロナ、秘数3』(中公文庫1992年初版)を見つけ飛行機の長旅中に読み続けていた。カタロニア地方、バルセロナに関して、「3」という数字の表わす秘義と「4」で示される力の微妙な関係が、この地形と文化に隠されているというわけだ。このような観点から見学しても興味ある所だなあと読み下した。チャンスがあれば、ゆっくりとバルセロナと様々な建造物だけでゆっくり見学する価値があると感じた。しかし我々の向かうところはカタルニア地方の人々、バルセロナの人々の心の故郷となっているモンセラートという奇景の土地だ。大聖堂の中央真上に鎮座まします「黒のマリア像(ムラネタと親しみをこめて呼ばれている)」が繰り広げる信仰の展開の参拝巡礼である。ここへ連日、大勢の信者がやってくる。修道院は標高740bのところにあるが、大げさに言えば全カタルニア、全ヨーロッパの聖母信心の故郷である。ルルド、ファチマの出来事より千年前からすでに聖母信心の中心地であった。大勢の人々がバスを連ねてやってくる。
 長い歴史の中で世俗の政治的諍いに巻き込まれ続けても、しかもその奇景は沢山の芸術家にインスピレーションを与え、宗教的には隠遁的で神秘的領域へと招き・・・霊的力が大地から湧き上がってくるというのが聖地モンセラートである。ムラネタについては前回も書いたので省略するが、今回、ある芸術的感性豊かな巡礼同行者は「黒のマリア像」の前で止めどもない涙に襲われたという。その素朴な木像、黒という意表をつく色、芸術的な凝りもなく、しかも威厳を持って幼子イエスを膝に置き・・・。彼女の魂の深みにある霊的な何かが動き、深い感動を呼び起こしたのであろう。
 黒の聖母の右手上には丸い玉があり、左手で膝の上の幼子イエスを守るようなしぐさをしている。イエスはなぜか松ぼっくりをもち、マリアのもつ丸い玉はなんだろうと考え続けていた。地球・全人類か、黄金の玉、恵みの塊・・・。説明・回答をだれからも受けなかった。如来ではないがそれに仕える毘沙門天や吉祥天の像をみると、やはり手に何か丸いものを持っている。宝棒や宝の珠である。彼らは幸福をあたえる天部であるが、それらから推理するにマリアさまの右手の丸い珠も、恵み・宝物・幸福をシンボルしているのであろうか。薬師如来の場合、必ず左手に薬つぼを持っているので他の仏像と区別して分るように、マリアの右手の丸い珠は、一人ひとりに与えようとし、必要としている恵みであろうと、一人勝手に了解している。

ムラネタは1881年に教会からカタルニアの守護の聖人と定められて、2006年の今年は125年の聖年に当たっていた。それで聖母月の5月はとりわけ巡礼者が多い。5月11日は、はからずも、バルセロナ近辺の修道者達によるその聖母戴冠記念ミサであり、司祭・修道女・信徒が大勢参列するミサにわれわれも加えてもらった。運がよかった。様々な建造物、芸術的な作品、モンセラートの奇景・・・これらは外観的に眺めている観光的な要素である。

 悪いことではないが、五感と意識が外に向かっているので第一図絵の「尋牛」に該当するだろう。外観的な、悪く言えば物見遊山な領域だ。もちろん人の心の内部まで推し量ることは出来ないが。十牛図は、そこから始まり、内面降下の道を歩み、「心」を極めてゆく道を描いている。

 ベネディクトの修道精神は、出かけてゆくというよりも迎える(ホスピス)ことを自分達の使命と考えている。来訪者を旅するイエスと思え・・・とベネディクトの戒律に書かれているように。宣教には、出かけてゆく方法とやってくる人々に愛を持って迎える、という両方法があり、東洋的な深層意識にある原型は後者の存在論的な受動的な態度であろう。司祭になったばかりの若い頃「集めるのではなくて、集まってくるものだ」と叫んだ日を思い出す。モンセラートを訪問することはベネディクト会の精神に触れることでもある。ベネディクトのそれはうろうろ出歩くのではなくて「定住」しつつの宣教である。祈り・典礼のかもし出す天的な香りによって、あるいはまた、沈黙の生活によって人をして魂の深みへ導く宣教でもある。こうした霊性から隠遁所なども受け継げられている。ベネディクトの霊性は、450年ほど前、モンセラートに巡礼し、近くのマンセッサの洞窟にとどまり「霊操」を書き、イエズス会を創立したイグナチオの宣教スタイルとは、異なる霊的な流れである。  

 禅の十牛図で言うなら「第十番目の入纏垂手」のような、神の国の平和を修道生活において先取りしてゆこうとするものであろう。戦わない。競わない。はからわない。「平和の山」の実現を目指している。修道者達は穏やかであった。せかせかしていなかった。都会で、日本で、何事も計画・予定に随って競合しながら動いてゆくわれわれのリズムとは、別の思考で動いている。

 ホテル・アッバス・シスネロス

われわれの泊まる宿泊所は、昨年と同じ「大修道院長シスネロス・ホテル」である。修道院と地下かどこかで通じており、かつて修道院生活が盛んであった頃、ここは修道士たちの僧坊であって、そういうわけで有名な大院長シスネロスの名がつけられている。ホテルの裏の側は大きな岩魂が迫ってきており、小鳥達の巣となっている。他方の表側の窓からは、広場とモンセラートの施設全体や山の登るロープウェイやフニクラ(登山電車)が見渡せ、そのむこうには様々な奇景を呈したモンセラートの山々や岩魂がみえる。時代の移り変わりとともに僧坊は、今は巡礼者たちの快適なホテルにリホームされて一般に開放されている。もっと安価な元僧坊や修道院内部にも黙想者や巡礼者を受け入れる場所がある。台所つきの青年や家族ぐるみで長期過ごすアパートのような施設もあるし、青少年達がキャンプできる場所もある。モンセラートを慕ってやってくる巡礼者の望みによってそれぞれ宿泊所を選ぶことが出来るわけだ。修道者たちの住まいや生活圏(修道院内部)は禁域だが、仕事・研究・典礼・生活に必要な場所・園庭などが充分な広さで繰り広げられている。

外観から見たモンセラートは、多くの人がその不思議な景色に圧倒される。それは前回の巡礼で私たちもそう感じたのであった。黒染の修道服をきた大勢の修道者の共同生活がそのモンセラートの核となっている。今回は、モンセラートの霊的源流に触れる巡礼を企画した。もっとモンセラ−トの土地・風土深くに触れ、霊的源流に触れることを望んでの巡礼であった。モンセラートの霊性はコバ(洞窟)の霊性であろう。それに触れることを望んでいた。モンセラートには「黒のマリア像」の発見されたサンタ・コバ(聖なる洞窟)をはじめ、修道院が開かれる以前から隠遁生活をする人々の棲んだ洞窟やその跡がある。修道院生活が始まるようになってからも13箇所の隠遁所がある。より一層、沈黙と厳しい生活、神と共なる生活を望んで隠遁するものがいたが、けっしてそれは世を逃げる(フーガ・ムンディ)行為ではなく、世のために隠れて沈黙する神とのより親しく精神的に仕える積極的・自立的な生き方である。現実逃避では決してない。彼らは俗界と天界を結ぶ特別な召命に生きていたのである。そのなかに、元修道院院長や養成担当(修練長)をしていたエスタニスラウ修道士がいた。残念なことに、現在、隠遁者は一人もいないとのことであった。

エスタニスラウ神父のこと

 彼は1915年9月12日生まれ。生来病弱であったが神から特別な招きを受けて、幼い頃からモンセラートのベネディクト会修道院に入会。学問的才能だけではなく、霊的才能が目立つように成り、修練長、院長をへてモンセラートで霊的統治する。のち、サンタ・コバの洞窟、そしてサン・クルス隠遁所で瞑想の生活をしていた。隠遁していても訪問者が多くなり、彼はやがて聖地エルサレムで隠遁生活をしたのち、東洋日本の五島の貧しい漁港の傍で数名のシスターを引き連れて隠遁生活をしていた。あまりにも厳しい生活のためもあり、広島県三原市羽倉の農家に最終的な隠遁地を見つけるようになる。病を得て残りの生命の火が少ないと分り、神父とシスター・ミリアムはモンセラート修道院に戻り看病を受けて帰天した。2003年3月29日のことである。今回、シスター・ミリアムのお陰で、彼の墓をも訪問することができた。たくさんの物故修道士の並んだ白い墓標が立ち、彼のことを知らなければ見逃すか素通りしてしまう。
 墓地の入り口は「マグニフィカットの道」の途中にある。そこに至るまでの左の山側には様々な教会が記念した陶器の聖母像が次々と現れる。「おらが村のマリア」を本山のモンセラートに、というわけだろうか。石灰岩が隆起した山々、レンガ色の砂・・・それだけなら寒々した印象がするが、モンセラートの5月は野の花がいっせいに咲く時期でもある。お陰で道端、岩肌に咲く花をたくさん写真で取ることが出来たのも幸いであった。

ベネディクトの祈り

今回の巡礼は、滞在型巡礼といってよい。ベネディクト会の典礼に参加することを大事にした。ホテル・シスネロスには4泊5日の滞在であった。朝の7時半の朝課、11時からのミサ、12時からの少年合唱団のサルベ・レジナ、6時45分からの晩課・・・一般に開放されている聖堂での典礼に修道士たちの祈りに参加し、美しく静かな典礼を毎日味わうことが出来た。典礼を専門にするベネディクト会士たちの典礼に与ることが出来たのは幸せであった。ここで典礼そのものが「祈り」であることを実感したのである。理屈では分っていたが、「典礼そのものが祈り」を味わう機会は少ない。静寂、落ち着き、間を取る、余計な余興を入れない、洗練された聖歌、荘厳さ、短い説教・・・。多くの場合、典礼は騒々しく、神の言葉や神の声が聞こえてこないと感じられるものが多くて・・・。モンセラートに預かった私たちは「天上の典礼」をすこし味わったのかもしれない。落ち着いた素晴らしい典礼への参加は、ホテルの食事とワインがおいしかっただけではなくて、巡礼団に取り大きな恵みであった。

 到着して、真っ先に大聖堂真上に安置されている「黒のマリア像」へ挨拶にいった。残りの時間を、それぞれ大聖堂脇にある「アヴェ・マリアの道」に、祈願やお礼のローソクを供える。あるものは芸術的にもすばらしい聖堂内の彫刻や絵画、周りの散策と祈りに過ごした。午後、「黒のマリア像」の発見されたサンタ・コバまで、車椅子の82歳の夫人を支えながらの巡礼だった。途中までケーブル・カーで行き、コバまで20分ほどでいける。弱い人をそれとなく全員が支え、守りながらの道行きは美しい人の輪を造る。中心はいつも人の目には小さく弱い人であるのは神のなさる不思議な業だ。サンタ・コバ内部にはマリアの発見されていた場所に複製木像が安置されていて、祭壇ではミサも捧げることが出来るようになっている。皆、マリア像を手で触れて信心をいただき、アヴェ・マリアを祈り、マリアの歌を合唱。ここはエスタニスラウ神父が最初に隠遁をしたところである。神父のお陰でサンタ・コバまでの「ロザリオの道」は歩きやすいように舗装された、とシスター・ミリアムの説明。サンタ・コバの奥は小さな修道院のような設計で、展示室や回廊風の庭や美しい展望の庭もあり、見晴らしは一等地である。

 多くの瞑想者や隠遁者は、大自然の素晴らしい景色を選び、そこで静かに神と共に過ごす。大自然そのものの持つ力が癒しや神への賛美を促がすのである。ある意味で心理的な「よい贅沢」を選んでいる。それは隠遁者だけではなく、共同修道生活をするベネディクト修道院内にも共通している。大自然と同化した建物には、無駄な置物はなく、祈りが染みこんでいるのだ。全てが神に向けられているようである。
 十牛図の第九「返本還源」では、自然は自然のまま、受け取る側の人間が自然の営利の中におり、自然が鮮やかに迫ってくる。花や蝶や鳥たちは生かされているいのちを精一杯生きて、明日を煩わない。花はくれない柳はみどり・・・としてあるがままの自然を新鮮に愛でる心境。変わったのは自然ではなくて人間の心が変わったのである。

コバの霊性

その後、それぞれ十字架の道行き、聖ミゲルの聖堂、僧ガリーの高台(大昔の隠遁所)、ケーブル・カーで聖ジョアン山峰、そこから険しい山道をサンタ・クレウ庵へと体力に応じて行動した。モンセラートの訪問するべきところのすべてに行った感じで、満足している。「僧ガリーの高台」には、ほとんどの人が行かないだろう。山の登り道が細くて険しく、薄暗い樫木林が茂っているためかもしれない。登り切った所に炭焼き場のようで入り口が半分崩れたレンガの洞窟があり、標識があるだけ。安全のために立ち入り禁止のテープが張られていて、観光を目的とする人はガッカリするかもしれない。6畳ほどの空間があり、数百年前か1000年前に隠遁者ガリーが、雨風をしのぎ石器時代のような生き方をしていた様子を想像することが出来る。昔の人は偉いなあと思った。ここは山小屋か高所にある別荘風の隠遁所と随分違い、風雨を凌ぐだけの洞窟だ。

 こういう隠遁所で日本の僧達はよく修行した。原始的で質素そのもので不便。虫や動物の出現。水と固いパンだけを持った隠棲だ。内観の創始者・吉本先生も若い頃、奈良の山中のこういう洞窟で水と握飯だけを持って内観修行をされた。空海も、そのほかの有名な僧もたいてい山に籠もり修行した。もともと日本には仙人の思想や修験道があり、山は修行の場であり、自分自身と向き合う場である。日本人の霊性の底流を流れている。だから隠遁所は日本人の郷愁をそそぐ。彼らは隠れているが、ときおり日本の宗教界に大きなエネルギーを与える。日本の真言密教を開いた空海も四国・大滝嶽、室戸での修行ではじまり様々な山篭りをしている。臨在禅の中興の祖である白隠を導いたのは、京都山城の白川山中に隠棲していた白幽仙人だった。京都・栂ノ尾の高山寺では明恵上人が自分専用の七つもの庵を作って、出歩くよりも隠棲を好んだ。その他、かぞえるときりがない。

 さて、エスタニラウ神父のサンタ・クレウ庵へはギザギザ山を登ったり下ったりしながらの険しい道だ。いほりは修道院の真上高くにあるが、ケーブル駅・聖ジョアン駅からは60分から90分はかかる。とてもそこまではいけないと諦めていた人も、みなに励まされて、無事、最後までたどり着いた。途中にロック・クライミングをしようとする若者のグループと出会った。これもモンセラートの別の姿である。頂上に庵と小さな庭があり、十字架がつつましくたっている。まるで天上に来たようだ。モンセラートとふもとの街が見渡せる絶景の場所である。空気は透明で、騒音はなく、一行は思い思いの場所で15分間の瞑想の時間を過ごした。後の感想会ではこのサンタ・クレウ庵への強行軍とそれに続く15分間の沈黙のひと時が一番よかったという声が多かった。シスター・ミリアムが同行していなかったら到底そこまでいけなかったであろう。沈黙と孤独のなかで瞑想生活をする。禅の十牛図の第七番目は「忘牛存人」とあり、一人の人が「庵」にいる姿が書かれている。現象界や他者に巻き込まれずに、魂の内面降下を果たし、自分の生きる軸をしっかりと持ち、それゆえ、一人でいても決してひとりでいるのではない・・・そとに探すのではなく自らのうちに真実のものがあることを経験している。私、汝、主客の分別・区別の消えた状態である。「東西の霊性の源流を探る」という課題を持った巡礼中、洞窟(コバ)を前にしてこうしたことを考え続けていた。夕方近くに霧が出てきたので、帰途は急いで600段ほどもある石段をひたすら下るというものだった。
 この道行きは、それぞれの人が自分の内面において何かを感じつつの「行」であったことと思う。シスターだけが知っている道を皆がついてゆく。自分の体力の限界を感じて尻込みしようとするとか・・・他の人の言動が気になったり、迷惑をかけまいと頑張ったり・・・後どれくらいであろうかと先を心配したり・・・弱そうで苦労している人に手を差し出すとか・・・やり終わって自信がついたとか・・・これらは、それぞれの人が内面で十牛図の各プロセスを経験していたのではないだろうか。第二図絵「見跡」、第三「見牛」、第四「得牛」の内的経験のときであったと思う。そしてサンタ・クレウ庵に着き、つつましい木の十字架、青空、そよ風にたどり着き、一時、第五図絵以下を感じた・・・。

 あと、大修道院の中庭に今も残っている祈祷所(サン・イスクラ)に許可を頂き、入れてもらって、やはり15分ほど沈黙の呼吸法で祈った。イスクラ内部は昨年よりもよく整備されていて、床の上にクッションを敷いて畳が4〜5畳分ほど敷いてあり、そこに座っての沈黙の呼吸法(祈り)である。吸う息よりも、吐く息を長く細くゆったりと、なにも考えずにそれだけをしてください、との注意をしての「呼吸の祈り」の実習だった。祈祷所は修道院の庭園内にあるので修道士が普段使用しているのかもしれない。壁が白く塗り替えられており、漆喰の下に残っている数百年か千年前の壁画の一部が保存されていた。茶色に見える細い線で描かれている。うえに他の色が加えられていたかもしれない。どのような絵が描かれていたか。前左に鳩がパンを咥えて壁画の中央のほうを見ているので、おそらくスビアコの洞窟で隠遁する聖ベネディクトに鳩が食べものを運んだ、という場面であろうか。

 最後の日はバルセロナのホテルに泊まる。翌朝、部屋の中でミサを。祭服は白い絹織り布で作られたサリーのような一枚の細長い布とストラだ。坐ってミサを捧げるための特製のものだ。持参していた小さな鈴を鳴らしてミサが始まる。久しぶりの日本語でのゆったりしたミサに、参加者は喜んだ。ワインとチーズからお茶漬けとたくあんの次元に戻った、というわけだろうか。

さて、十牛図の第十番目の「入纏垂手」を表わしている修道者に出会うことが出来たであろうか。頭が禿げ、背はそれほど高くなく、丸い体型で、めがねをかけ、祈るときに両手を胸上部あたりに組み、組んだ両手の中に頭をうなだれるようにして・・・ミサのために香部屋に入ると、見慣れない東洋人の私の手を強く握って励ましと親愛の情を表わしてくれた。時々群集でごった返している広場に修道服を着たまま、その交わりの中に彼の姿を見出した。
                  2000年5月22日 書き改めてしるす
                    心のいほり 内観瞑想センター 藤原 直達


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