2018年3月5日更新


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          永 遠に向 かい、全ては流転し、移り変り、過ぎ行くもの


たいそうなタイトルになりましたが、完全なもの、完成したもの、永遠に続くものはありません。 「神」(「?」のお方)だけが完全・完璧・永遠ですね。
センターとして使わせていただいている「いほり」(庵 事務局)の建物の老巧化が進み、一昨年頃か ら雨漏り・建物の傾斜が甚だしく、大地震のグラグラに到底耐えられない状態でした。
私自身の体も昨年の6月から不調となり、仕事を控えつつも、入院・手術・その後の養生の中を、何と か内観面接もさせて頂いておりました。

地上でのいつくしみの神様の代理者である大司教様はそういう状況を気遣ってくださり、私のために新 しい任地として、「厳律シトー会・西宮の聖母の修道院(通称トラピスチヌ)」付司祭として派遣なさ いました。六甲山系の麓にある真言宗の由緒あるお寺に隣接しています。「祈りかつ働け」をモットー とした三十数名の修道女たちの定住・隠世共同体での秘跡の奉仕のためです。これは人生の三番目の大 きな神様からのお召しです。 

一番目は「司祭」叙階でした。教区司祭として様々な経験をさせていただきました。その約二十年後 に、魂の深層への道行きと人々への魂の奉仕として「内観同行の奉仕者」のお召し(二番目)でした。 この同行者としての二十数年間、多くの人々、また祈りで応援してくださった人々、魂の深層への旅を 願う内観者達に囲まれた恵みの時を、神様は特別に与えてくださっていました。

何時まで生きるかわかりませんが、第三のお召しとして、今後は定住的な生活形態であるため、これま でのような各所への行脚・面接同行のリズムはこれでひとまず終了しなければなりません。けれども、 修道院には、木々に囲まれた静かな宿泊棟もございます。いままでもここで内観会場として利用させて いただいておりましたが、今後の内観黙想や面接は、修道院の宿泊棟にて、ご希望者にお応えしようと 考えております。
他方、修道院の大勢の姉妹達の、早朝からの祈りの環境に身をおいて、孤独と沈黙を学び、神を賛美す る祭司職へのお召しに精進出来ることを感謝しております。そこで、下手な一句。
「老いてなお 主の召しに燃えて 荷を運ぶ 厳寒の日」

新しい住所は以下です。
郵便番号 662−0003 兵庫県西宮市鷲林寺3−46
シトー会西宮の聖母修道院 司祭館
fax(修道院)0798・71・5234
携帯 090・2401・9374
(但し、電波が届きにくい)
(HP・検索「こころのいほり 内観瞑想センター」は、更新できればと希望しています)

今後とも、どうぞよろしくお願いします。

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 当センターの内観は、内観原法で教える 三項目の枠組みを切り口として、内観者の状況に合わせてステップを踏んでいきます。癒しの過程、人 生全体の調えの過程、黙想・瞑想への調えの過程という風に三段階を考えています。これらは階段のよ うに進むわけではなく、それらは重複し、絡み合いながら、人生の目的を深めていきます。
参加者は様々な動機をお持ちで内観なさいます。依存症や心の病気など。人間関係、夫婦関係、親子関 係。人生の進路選択。キリスト教の文化内開花(インカルチュレイション)を模索して、信仰の深めや 神との一致を求めて。まずは、入門として一週間の集中内観の体験をご案内します。
日本各地での会場は、「内観予定表」をご覧ください。

内観から内観瞑想へ

1 内観とは
内観とは、母親に対する自分はどういう態度で生きてきたかを、三項目の枠組みで、淡々と調べて、その後 も父親など身近な人に対する自己の態度を調べる。洞窟のようにも感じられる「屏風」という遮断状況を作 り出し、孤独と沈黙のうちに自分に向き合い、それを面接者に日に7.8度報告する。面接者は、内観に なっているか、まだまだ、外観的であるかをチェックする。なぜなら、つい、他人のせいや状況・環境のせ いにして生きるという現代の価値観の傾きに染まっているので、(面接者は)本当の意味で「自己」に向き あったかの見張り番でもある。

一週間の集中内観では、面接者のいるおかげで自分に向き合いやすいのだが、現実に戻ると、自分で自分 に向き合う必要がある(日常内観)。自分の今日一日の「心の動きはどうであったか」を監視、見張りをす る。現実生活の中に、そういう静止の時間を作り出してもらう。伝統的に「究明」や「意識の究明」といわ れていた事柄の日本的反省法である。一人では自己欺瞞や弁解しがちではあるが。

2 生き方全体の反省
内観では両親に対してどうであったか、を調べるが、それにとどまらない。「内観」という精神的態度を育 てる入門・第一歩に過ぎない。が、それでも、多くの人々の悩みや問題の解決、病気の癒し、主体的自主的 生き方の育成などという効果がある。私の内観会場では、「嘘と盗み」「怒り」「従順」「金銭感覚」「飲 酒」「異性関係(愛と性)」「三誓願」などの特別メニュウで調べることも少なくない。モーゼの十戒や仏 道でいう不十善とかが、内観のスタートとしてある。

要は、自己に直面し、人間的な目標に従って生きるように促す。そして、恵みなしには、善い生き方すら 出来ず無力な自己、分裂している自己に出会ってもらうのが目的である。宗教や信仰面においてすら、神や 仏の名を借りて、実は、自己中心的に生きる場合もあるのだから、自分の持っている「信仰」が本物である かを、より深層に降って見直してもらう場合もある。
外面的に宗教的勤めをつくろっている場合もある。しかし、内面はどうであるか、これこそ、イエスが福音 で問い掛けた領域であり、天の御父は隠れたところをご覧になっているのを思い出さねばならない。「内な る感覚」を取り戻すことにより、その人の信仰は生きはじめ、内的闘いも始まり、祈りが本物になる。神と の生きた関係が生じはじまる。

3 古代教会からの「道」としての内観
有名な砂漠の隠遁者である聖アントニウス(295〜373)の、有名なエピソートがある。修行に馴染ん で行脚の途中、道端に、銀やある時には、黄金が落ちていた。誰が落としたか、人の気配がなく、また足跡 も無い。おまけに誰も見ていない。あなたなるどうするか。誰も見ていないし、金・銀の宝物は高価である し、あれば助かる。しかしアントニウスは、普段から自分の心の見張り(内観)が習性になっていたので、 それこそ、サタン(自分の中にある悪い考え)が自分を試そうと、アレヤコレヤの試みを、今回もまた、攻 撃をしている事を知っていたので、彼は、それらの幻想・妄想・幻影を退け、気に留めずに、旅をつづけ た。(アレクサンドレイアのアタナシオスの『アントニオス伝』11・12番参照。)

人間の内面には、欲望がある。しかし欲望があるということも隠されてしまい、何とか理屈を見つけて、 自分を欺くものである。人をうまく騙し、自分をも欺くことに、引っかかりやすい。しかし、神を騙すこと は出来ない。こうして小さな不幸から始まり、やがて身の破滅で終る。

永遠のいのちをもとめて歩むには、一人一人の内心を知る訓練が必要である。求められるのは、正直さ、 忍耐力、謙虚さ、あるものに満足する、勤勉さ。これらが自分の中でどうであるかの心を正直に見張ること だ。

いつの間にか、こういう教えが、カトリック教会から消えていっているように感じる。その結果「癒しの 力」も失せた。そこに「神」を求める多くの人達の「教会離れ」の一因があるように感じる。これは自分に 対する苦々しい反省文なのであるが。

4 内観道
「内向き」であるかどうかが問題なのではない。「社会と遊離」しているかどうかの問い掛けでもない。別 のまなざしの問い掛け、つまり隠れた事をご覧になっている「神を畏れる心」があるかどうか。神は「よき 事」をなす汝ではなくて、汝が「どのような心」でそれをしているかをご覧になる。その神の目を意識して いるかどうか。これを内向きといえばそうだが、これをなくしたら使徒たちが伝えたキリスト教徒ではなく なる。
自分の中のキリストと御父を日々味わう努力、洗礼によって委ねられた「祈りの責任」(信徒の祭司職)を 果たしているかどうか。荒波の中で苦しむ人たちと連帯して、自らの内にもある「世の闇」を悔い改める道 を歩んでいるかどうか。福音を託された我々が、自分を顕す(自己顕示欲)のではなくてキリストをこそ顕 しているかどうか。そういう問い掛けが、正直なところ必要なのではないだろうか。ここに「内観道」があ る。このように他人に向かって言うが、自分の現状もはなはだ恥ずかしいものではあるが、もうそろそろ、 より一層、目覚めてよい時にきているのではないだろうか。そのように照らしのと回心の恵みを願ってい る。(2011年4月「息吹 42号」より)


       
岡山・三徳園にて。大地に根をしっかり張り、上にたくさんの枝と葉を実らせる大樹のようになるには、内観によって自 分自身を知ることからはじまります。 


お問合せは手紙かFAXでお願いします。
〒572-0001 大阪府寝屋川市成田東町3-27
「心のいほり 内観瞑想センター」
事務局代表:藤原直達神父
FAX:072-802-5026 携帯:090-2401-9374
E-mail:fujinao1944@nifty.com