2006年8月6日更新


 

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 質問に答えて1
 質問に答えて2
 質問に答えて3


Q 内観に関心があるのですが、時間と費用を作るのが難しくて・・・何とかなりませんか。

A 吉本先生のところでは7泊8日をかけていましたし、そういう期間をかける必要があるのです。初めの3、4日は深まっていく準備段階のようです。私のところでも6泊7日ですが、もぅ少し時間があればいいと思うことがよくあります。実際2週間の内観をする人もいます。けれども、完璧に出来なくともそれなりの気付きを得て、次の内観へとつないでもらえばいいと思っています。
 それにしても、吉本先生は「『物見遊山』
で内観に参加しないで下さい、真剣に自分に直面してください」といわれていましたが、そういう覚悟が必要です。

 それでも、主婦などは家を空けるのが難しくて、やらないよりもやるほうがいいでしょうから、数日の通い内観(朝10時から4時までの5時間内観を繰り返す…とか)、やウイーク・エンド、一泊内観などを計画します。いろいろの可能性がありますが、私の体は一つしかないので、希望者や世話役などの協力者の働き次第で実現は可能です。
 学校で生徒達の場合、静修会のような時に、屏風を用いず講堂に集まりいっせいに沈黙して、呼吸法と内観をしたこともあります。若い人の場合、内観は効き目が早いです。しかし、先生ではなくて生徒自身にやる気があるかどうか、が重要です。

 また、回数多く内観したからいいというわけでも、自慢の理由にもなりません。2泊3日で充分と深い洞察を持って帰られ、「危ないところを助けられた」といまだに感謝する人もいます。要は、本人の真剣さと内観の深さ、さらに神からの恩寵の働きのお陰です。

 費用のことをお尋ねですが、私には「内観道場」を持っていないので、交通機関を使い、荷物を運び、会場をお借りして、自分たちの宿泊費も出し…という方式でしていますので、どうしても経済的な様々な限界があり、皆さんの要望に応えることが出来ず、申し訳ないと思います。

 吉本先生は、当初、無料でしておられましたが、「ただ」だとその人の真剣さも怪しくなる、といっておられて、有料になさいました。しかしそれでも、彼はある時、ある老女の言葉として「昔の人は私財をなげうって、法を求めた。然るに、今は法を説いて、銭儲けしはる」と披露してくれました。その志を私も大事にしています。
 私の場合、内観者からの参加費だけではこの仕事が到底出来ません。教区からの援助金など一切ありません。「貧者の一灯」としての様々な人からの寄付金でやっているのです。損してでも、一人の内観者のためでも、会場まで出かけていっています。そうした志で同行をしているのです。

 興味のある人や司祭・修道者たちが、それなりの経験をつんで、あちこちで内観面接を自発的にしてくだされれば、問題は若干解消するのですが。

Q 今、「内観」は、世間で大分知られていますが、神父さんのところの内観は、どういう特徴がありますか。

A 大乗仏教(浄土真宗)を背景に持つ「内観」は、故吉本先生が開発されたものです。それを精神科、心理学、教育などそれぞれの分野で、それぞれの特徴を持って行われています。それでも「内観原法」と呼ばれる吉本先生の精神があります。私があえて『キリスト者のための内観』をしているのは、「内観原法」を大事にしつつ、動機をキリスト教信仰とのつながりにおいてはっきりとさせるためです。最近の研究を読むと、イエスの福音と親鸞の教えとが宗教現象としては「構造的」に同じであるとされていますから、ある意味で「吉本内観」の本流をキリスト教的に行っている面があるかもしれません。  
イエスの教えを生身の人間として生きてゆき、信仰がさらに内面深くに根を下ろすための内観です。現象としては様々な問題や悩みや病いなど、原罪の重荷を背負いつつ生きて、様々な「狂い」の混在している事があって内観に来られますが、内観することで、ある程度の意識整理が出来、解決や方向を見出し、超越し内在する神に向かう準備として位置づけます。そういうわけで、内観は対処療法ではなくて根治療法と呼ばれますが、その人の「生き方」「救い」「真の自己実現」の問題と関連しているのです。
屏風の中での一週間は自らの身において行う「過ぎ越し秘義」です。自分に死んでキリストにおいて生き返るのですが、「ミサと赦し」の秘跡的な枠組みで行っております。会場によっては十字架の道行きなどもしてもらいます。
 そうは言っても、実際は、一回の内観では、なかなか内観の深みに至る人は少ないのも実情です。

Q 参加するには、何を持っていけばいいのですか。聖書は。筆記用具は。

A 体一つで来てください。後は洗面具と必要ならば着替え…。聖書や祈り本はたいていの会場に備えられています。文字(大脳の知識)に向き合うのではなく、生身のありのままの自分に正直に向き合うのが内観ですから。

 神の言葉を頭で読んでいる事が多いですが、「自分の人生」にすでに隠されており、記されていたものを、聖霊の照らしを頂いて(内観の道筋を切り口として)読み直すのです。聖書を開かなくても、客観的な事実を思い浮かべている内観中

に自然に浮かんでくる御言葉が、あなたにとって生かす命の言葉でありますから。知識として御言葉を読むのは、むしろ「霊的貪り」といえましょう。「貪り」という三大煩悩の一つです。毎日のミサで朗読される聖書の言葉で充分です。

 現代人は、何かを書かねば気が散るという病気に陥っています。学問をした人や気の回りすぎる人は特にそうです。けれども、記憶されたことを書く動作はすでに大脳の働きになっており、ハートの部分から離れています。現実から大脳(思考)へと逃げてしまっています。
 愛の言葉を囁きあう恋人同士は、そのねんごろな気分ののっている際中に、中断して、ノートか何かに筆記しますか。そんなことをすれば、愛はさめてしまいます。内観中も同じことです。記憶をハートで味わうのです。良し悪しは横において、正直な感情にしっかり直面するのです。「忘れるので、書いておきます」という人が多いですが、吉本先生も「書かねば忘れるような記憶は、まだ内観が浅くて真剣さが足りない」と言われました。私もそう思います。

 要するに、大脳の新皮質での内観でなくて、古皮質(内臓の諸器官や分泌物と関係する)や脳幹に届くような内観をしてください。新皮質は、普通の「意識」「総合判断」する「自我意識」の働きをする領域です。吉本先生は、「古皮質」「脳幹」にいたるまでの内観をしてください、と言われました。脳幹は、生死のはざまであり、呼吸を働かせている器官です。セロトニン神経系が働き出す領域です。死と隣りあわせで内観せよ、ということでしょうか。こういうすさまじい気力で内観する人は少ないですね。

Q 私は、内観をしたいのですが、今、教会では共同体を強調し、一人の内面化は我侭だといわれました。内観はひたすら自分の内面に入るのでしょう、時代に逆行していませんか。

A 東北のある外人宣教師は、共同体のことを「狂同体」と吐き捨てるように言いました。教会は決して民主主義ではありません。多数決で決められて発展していくところではありません。上がこういったから、下は「従順」という名の「盲信」を教えるところでもありません。イエスの生き様を一人ひとりが、自分の生活とその周りで主体的に生きていくことです。自分の判断で自分の足で、周りの反対があっても、自覚的に、神様に向かって歩んでいかねばならない面もあります。
 司教も教皇も総長も、一応指針を出しますが、神様ではないから、当然、時代的・部分的な指導になりますから、末端にいる人には、文書を読んだからといっても、違和感があったり、その人の救いが全うするわけではありません。制度としての教会も人間の集団ですから「誤りや軽薄さ」があり、時代の流行や考え方の影響があるのは今までも当然でした。

 神様が、あなたの内面に現存し、あなたの人生を導き、インマヌエルなる神とともに生きる生活へと召されています。洗礼を受けて「共同体」に属するといっても、その共同体はサロン化し、異質な人を排除する習慣や、長くいた人々のしきたりを優先して、必ずしもキリストの道を歩む共同体でないところが多々あります。場合には司教の派遣した司祭を追い出す場合もあります。そういう苦情をよく聴きます。これらの全部ひっくるめて、これが今の教会の現実であることを受入れなければなりませんが、そうかといってそのままで良い訳でもありません。
 無理して、周りの動きに烏合して、教会の悪口を家で吐き出しては、子供が教会離れをするのは当然です。公の委員会では言わず、中のいい人たちだけで、こそこそ喫茶店で別の集会をする、としたら共同体というよりも、先の宣教師の言った「狂胴態」です。現実がおかしくなっているとさえ気付いていない。

共同体は抽象的なものではなくて、個人個人によって成り立っているわけですから、個人の自覚と主体性が前提となっています。その前提をしっかりしないとするなら、おぞましい集団が現れます。

質問に答えて2

Q 内観に関心があるのですが、時間と費用を作るのが難しくて・・・何とかなりませんか。

 

A 吉本先生のところでは7泊8日をかけていましたし、そういう期間をかける必要があるのです。初めの3、4日は深まっていく準備段階のようです。私のところでも6泊7日ですが、もぅ少し時間があればいいと思うことがよくあります。実際2週間の内観をする人もいます。けれども、完璧に出来なくともそれなりの気付きを得て、次の内観へとつないでもらえばいいと思っています。

それにしても、吉本先生は「『物見遊山』
で内観に参加しないで下さい、真剣に自分に直面してください」といわれていましたが、そういう覚悟が必要です。

それでも、主婦などは家を空けるのが難しくて、やらないよりもやるほうがいいでしょうから、数日の通い内観(朝10時から4時までの5時間内観を繰り返す…とか)、やウイーク・エンド、一泊内観などを計画します。いろいろの可能性がありますが、私の体は一つしかないので、希望者や世話役などの協力者の働き次第で実現は可能です。
 学校で生徒達の場合、静修会のような時に、屏風を用いず講堂に集まりいっせいに沈黙して、呼吸法と内観をしたこともあります。若い人の場合、内観は効き目が早いです。しかし、先生ではなくて生徒自身にやる気があるかどうか、が重要です。

また、回数多く内観したからいいというわけでも、自慢の理由にもなりません。2泊3日で充分と深い洞察を持って帰られ、「危ないところを助けられた」といまだに感謝する人もいます。要は、本人の真剣さと内観の深さ、さらに神からの恩寵の働きのお陰です。

 費用のことをお尋ねですが、私には「内観道場」を持っていないので、交通機関を使い、荷物を運び、会場をお借りして、自分たちの宿泊費も出し…という方式でしていますので、どうしても経済的な様々な限界があり、皆さんの要望に応えることが出来ず、申し訳ないと思います。

 吉本先生は、当初、無料でしておられましたが、「ただ」だとその人の真剣さも怪しくなる、といっておられて、有料になさいました。しかしそれでも、彼はある時、ある老女の言葉として「昔の人は私財をなげうって、法を求めた。然るに、今は法を説いて、銭儲けしはる」と披露してくれました。その志を私も大事にしています。
 私の場合、内観者からの参加費だけではこの仕事が到底出来ません。教区からの援助金など一切ありません。「貧者の一灯」としての様々な人からの寄付金でやっているのです。損してでも、一人の内観者のためでも、会場まで出かけていっています。そうした志で同行をしているのです。

興味のある人や司祭・修道者たちが、それなりの経験をつんで、あちこちで内観面接を自発的にしてくだされれば、問題は若干解消するのですが。

Q 今、「内観」は、世間で大分知られていますが、神父さんのところの内観は、どういう特徴がありますか。

A 大乗仏教(浄土真宗)を背景に持つ「内観」は、故吉本先生が開発されたものです。それを精神科、心理学、教育などそれぞれの分野で、それぞれの特徴を持って行われています。それでも「内観原法」と呼ばれる吉本先生の精神があります。私があえて『キリスト者のための内観』をしているのは、「内観原法」を大事にしつつ、動機をキリスト教信仰とのつながりにおいてはっきりとさせるためです。最近の研究を読むと、イエスの福音と親鸞の教えとが宗教現象としては「構造的」に同じであるとされていますから、ある意味で「吉本内観」の本流をキリスト教的に行っている面があるかもしれません。  

 イエスの教えを生身の人間として生きてゆき、信仰がさらに内面深くに根を下ろすための内観です。現象としては様々な問題や悩みや病いなど、原罪の重荷を背負いつつ生きて、様々な「狂い」の混在している事があって内観に来られますが、内観することで、ある程度の意識整理が出来、解決や方向を見出し、超越し内在する神に向かう準備として位置づけます。そういうわけで、内観は対処療法ではなくて根治療法と呼ばれますが、その人の「生き方」「救い」「真の自己実現」の問題と関連しているのです。

屏風の中での一週間は自らの身において行う「過ぎ越し秘義」です。自分に死んでキリストにおいて生き返るのですが、「ミサと赦し」の秘跡的な枠組みで行っております。会場によっては十字架の道行きなどもしてもらいます。
 そうは言っても、実際は、一回の内観では、なかなか内観の深みに至る人は少ないのも実情です。

Q 参加するには、何を持っていけばいいのですか。聖書は。筆記用具は。

A 体一つで来てください。後は洗面具と必要ならば着替え…。聖書や祈り本はたいていの会場に備えられています。文字(大脳の知識)に向き合うのではなく、生身のありのままの自分に正直に向き合うのが内観ですから。

 神の言葉を頭で読んでいる事が多いですが、「自分の人生」にすでに隠されており、記されていたものを、聖霊の照らしを頂いて(内観の道筋を切り口として)読み直すのです。聖書を開かなくても、客観的な事実を思い浮かべている内観中に自然に浮かんでくる御言葉が、あなたにとって生かす命の言葉でありますから。知識として御言葉を読むのは、むしろ「霊的貪り」といえましょう。「貪り」という三大煩悩の一つです。毎日のミサで朗読される聖書の言葉で充分です。

現代人は、何かを書かねば気が散るという病気に陥っています。学問をした人や気の回りすぎる人は特にそうです。けれども、記憶されたことを書く動作はすでに大脳の働きになっており、ハートの部分から離れています。現実から大脳(思考)へと逃げてしまっています。

愛の言葉を囁きあう恋人同士は、そのねんごろな気分ののっている際中に、中断して、ノートか何かに筆記しますか。そんなことをすれば、愛はさめてしまいます。内観中も同じことです。記憶をハートで味わうのです。良し悪しは横において、正直な感情にしっかり直面するのです。「忘れるので、書いておきます」という人が多いですが、吉本先生も「書かねば忘れるような記憶は、まだ内観が浅くて真剣さが足りない」と言われました。私もそう思います。

要するに、大脳の新皮質での内観でなくて、古皮質(内臓の諸器官や分泌物と関係する)や脳幹に届くような内観をしてください。新皮質は、普通の「意識」「総合判断」する「自我意識」の働きをする領域です。吉本先生は、「古皮質」「脳幹」にいたるまでの内観をしてください、と言われました。脳幹は、生死のはざまであり、呼吸を働かせている器官です。セロトニン神経系が働き出す領域です。死と隣りあわせで内観せよ、ということでしょうか。こういうすさまじい気力で内観する人は少ないですね。

Q 私は、内観をしたいのですが、今、教会では共同体を強調し、一人の内面化は我侭だといわれました。内観はひたすら自分の内面に入るのでしょう、時代に逆行していませんか。

A 東北のある外人宣教師は、共同体のことを「狂同体」と吐き捨てるように言いました。教会は決して民主主義ではありません。多数決で決められて発展していくところではありません。上がこういったから、下は「従順」という名の「盲信」を教えるところでもありません。イエスの生き様を一人ひとりが、自分の生活とその周りで主体的に生きていくことです。自分の判断で自分の足で、周りの反対があっても、自覚的に、神様に向かって歩んでいかねばならない面もあります。
 司教も教皇も総長も、一応指針を出しますが、神様ではないから、当然、時代的・部分的な指導になりますから、末端にいる人には、文書を読んだからといっても、違和感があったり、その人の救いが全うするわけではありません。制度としての教会も人間の集団ですから「誤りや軽薄さ」があり、時代の流行や考え方の影響があるのは今までも当然でした。

 神様が、あなたの内面に現存し、あなたの人生を導き、インマヌエルなる神とともに生きる生活へと召されています。洗礼を受けて「共同体」に属するといっても、その共同体はサロン化し、異質な人を排除する習慣や、長くいた人々のしきたりを優先して、必ずしもキリストの道を歩む共同体でないところが多々あります。場合には司教の派遣した司祭を追い出す場合もあります。そういう苦情をよく聴きます。これらの全部ひっくるめて、これが今の教会の現実であることを受入れなければなりませんが、そうかといってそのままで良い訳でもありません。
 無理して、周りの動きに烏合して、教会の悪口を家で吐き出しては、子供が教会離れをするのは当然です。公の委員会では言わず、中のいい人たちだけで、こそこそ喫茶店で別の集会をする、としたら共同体というよりも、先の宣教師の言った「狂胴態」です。現実がおかしくなっているとさえ気付いていない。
 共同体は抽象的なものではなくて、個人個人によって成り立っているわけですから、個人の自覚と主体性が前提となっています。その前提をしっかりしないとするなら、おぞましい集団が現れます。

Q 今日は普段聞けない話を、聴けて、ホッとしました。ありがとうございました。

Q 集中内観-後の内観について、難しいのですが。どうすればいいのですか

一週間の集中内観は、日常(分散)内観の練習です。吉本先生は毎日2時間の日常内観をしなさい、一時間は集中内観の時のように一人一人について年代順に行い、もう一時間は今日一日の出来事の中から自分はどうであったかを調べる、と教えていました。これは普段おこなっている外観的な生き方では、幸せな人生を送ることが出来ませんよ、心の平和を得るには日々内観しながら生きなさいよ、という教えであろうと思います。
 しかし私は、自分が先生の教えるような毎日2時間の内観を実行できていないので、皆さんにそれをするようにと指導する資格はありません。その代わりに私がしたのは、日常内観が充分出来ないからこそ、10年間に5回の集中内観をしました。時々、自分の心の中に何か詰まっていて、整理したいと感じたときに、集中内観に出かけました。集中内観を繰り返すことによって、内観的な思考方法が自分の脳みそに出来上がっているように感じます。そして、特別な時間をもうけなくとも自分の意識の中では、三項目で読み直すことが出来る思考方法が生まれて、前向きに他者のために何かの行動をする方向へと変化してきました。ですから、私の言えることは、集中内観を繰り返してください、ということです。

Q 内観を繰り返すのは時間と経費の問題から、なかなか大変ですね

それは人生に対する捉え方の問題です。あなたにとって、人生の目的はなんですか。明日、死んだらどうしますか。幸せでしたか、悔いが残りますか。天国に預金通帳を持っていけませんよ。こういう人生の本質的な問題と関係しています。これはその人それぞれの自由意志の問題ですから、強制することができません。その人の人生上の選択問題です。
 私の場合、内観を繰り返し、それでも、まだ不十分であるし、他人も内観を求めていると知ってから、とうとう自分自身が内観同行者となることになりました。内観者の面接を聞きながら、自分の内観をもさせていただくという道へと運ばれていきました。

 これは神様の大きなお恵み(御慈悲)であったし、私の固有の司祭職の奉仕の道となりました。内観者に励まされ、支えられて「内観道」を歩みながら信仰の内面(霊的)の深め-という旅をしています。

Q 内観の効果は、神父さまにとってなんでしたか。

出来の悪い内観者で、分別知に汚されていましたので、考えることは心理学的、分析的、推察、独りよがりでグルグル周りの考えが多かったのです。しかし、内観的な思考方法に慣れてくると、従来は長い日時、あるいは種類によると長い年月の間悩み、それでも解決できなかった根深い事が、数ヶ月、数日で解決、解消し終わるという経験を多くしました。そのうち、瞬間的に、三項目で自分の取るべき態度に気付くというようになり、心に平和を保つようになりました。

 これは霊的生活、内的生活、すなわち、イエス・キリストに従って生きてゆく上で、神の智慧(福音の智慧)を頂いて生きてゆくために非常に重要なこととなりました。内観は本格的な瞑想への序曲です。そうでない場合、他人の言動に動かされ左右され、反応して生きてゆくという風な、人生の大事な主軸を失い、無駄な時間を費やし、危うい生活をし、神との親しい生活は決して出来ない事だったでしょう。

Q 内観は何かの悩みや問題のある人たちが行う心理療法と思っていましたが。

内観の付随的な効果として、確かに悩み解決・癒しなどを伴うことがあります。しかし、人間である限り、だれでも内観することは好ましいことです。私は「内観道」と呼び、人生の生き方、キリスト者の生き方の問題と深く関係していると考えています。メンタル(頭・知識)な領域から存在論(生き方・態度)的な領域へ、そして信仰の内面化へと促がしています。

 内観的な思考方法は、「癒し」だけに終わるならば、司祭である私は同行者の仕事をしておりません。内面の振り返りは、人生の矛盾や解決できない苦悩から始まりますが、決して世に構造的な悪の力が働いている問題を無視しているわけではありません。
 内面的に深めることは、世の暗闇から逃げるのでなく、いうなれば「苦海」に身を浸しつつ、その中でとなりびととして呼吸をしつつ連帯し、瞑想を続けるということです。神の子・イエスが受肉されて世にとどまり住まわれたコトを継続する意味があります。ここに十字架の秘義、受難と死と復活の神秘があります。
 内観同行者のあり方は、世にとどまる司祭的な一つの生き様ではないだろうか、と理解しているのです。

Q 質問が元に戻りますが、それでも日常内観は難しいです。

そうです。私も充分出来ていません。そこで、皆さんに伝えたいのは、日常内観が出来なくとも、せめて毎日「呼吸法」をしてください、ということです。「坐禅」「ヨーガ」というような大げさなことをいいません。それに馴染んでいるならばそれをする事は多いに結構です。一定の時間に姿勢を調えて呼吸法を毎日する。吸う息と吐く息。ゆっくりと落ち着いて深い呼吸をする。そして、吐き出すときに、長く細く下腹部(丹田)にいたるまで、体内の全部の空気を吐き出す。難しく考えず、吐く息の長い深呼吸で充分です。無理のない自然な深い呼吸。20分間ほどをすればよい。20分の深い呼吸法が無理ならば5分でも10分でもよい。朝晩にするとか、あるいは仕事の合間に、仕事の切り目に、あるいは心が落ち着いていないときに、呼吸法を生活の中に入れます。この重要性をアドバイスしています。

 とにかく単純に深い呼吸で日々生活をするようにとの勧めです。これは特に忙しい生活をしている人や、こころの病などを得ている人に、効果的です。内観を深めてゆくためにも、呼吸法は大事であると思います。深い呼吸によって生活が調ってくれば、内観が自ずから深奥から湧いてきます。

Q 今日はありがとうございました。私も呼吸を大事にしていこうと思います。

 


 


 


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