最上のわざ 合掌
ホイベルス神父様が晩年に創られた美しい祈りがある。「最上のわざ」と表題されている。若いころにいろんな善きことを神様と人々にしてきたが、何も出来なくなった老境にあって、手を合わせて祈るという「最上のわざ」があると、祈る詩篇である。
九十を超えた老女にイエスの聖別されたパンを授ける。拝領後、合掌してしばらく、味わっておられる。イエスとの心身一致を、無心に合掌して、味わっておられる。言葉の祈りを入れるのを憚るほどである。人の世話を受けるしかなくなったわが身に出来ることは、合掌し、感謝し、微笑を与える(顔施がんせ)ことしかない。でも、それは「最上のわざ」である。
祈るとき、言葉でもなく、場所を選ぶでもなく、そのまま合掌をして、ただ、心を「あの方(アッバとイエス)」によせる。数秒でもいい。要は、こころを全傾注することだ。考えや感情を超えて、ただ、「あの方」を「合掌」する。それを「南無の心」、あるいは「アーメン・アレルヤの心」という。言葉が多ければ、心がどこかに逃げていくというのが、東洋人が気付いた真理把握の感性である。忙しいさなかに、ふと、ある瞬間に、合掌し、「最上のわざ」をできますように。
(「息吹 24号」2005年3月より)
道行き
一週間、屏風の中に入り、ひたすら自分に向き合うと、自分の姿がよく見えてきて、素直になり、正しい生き方への希望に燃える。感謝の心が豊かになる。場合によっては、帰ってから、迷惑かけた相手に対して、「ごめんなさい」や「つぐのう」ことも、具体的に考える。
普通、自分の生き方を変えたい、心の病から脱出したい、問題を解決したい、もっと深い信仰者になりたい・・・などの動機を持って、内観に来られる。集中内観によって、幸いに自己理解や深い自己洞察を得て、帰っていかれる。数日間、高揚した気分、すがすがしさを保つことができる。しかし、かつての生き方や従来の同じ環境のうずに巻き込まれて、もとの状態に戻ってしまう。それは内観が効かなかったのではなくて、日常において内観を続けなかったからである。元の泥水の中に浸ったままになったからである。一週間の修行が、一時の味わいに終わるのは、もったいないことで、残念なことである。
集中内観は、「道」を歩むスタートにすぎない。自分を正しく知る方法を学び、実際それを体験的に訓練したのである。集中内観は現実生活で生きる準備・訓練であり、日常生活こそが本番である。現実の中でこそ、内観と呼吸法をしなければ、長年の古い自分のパターンに戻って、回りの環境・古い習慣に逆戻りするのは、当たり前である。学んだ「道」を生きるのは、内観者一人ひとりの不空が必要である。
再度、集中内観に参加するとか、様々な工夫をして、日常性の中に内観と呼吸法を続けて道を歩み続けることが大事である。こうして人生の目的に到着する。
(「息吹 25号」2005年8月号より)
「ことば」
言葉を用いて真実を表そうとする。至極当然のことであろう。これを依言真如(いげんしんにょ)という。しかし、真実は言葉の枠に収まりきれないものでもある。そこで言葉を離れて真実を表すことが必要となる。それを離言真如(りげんしんよ)と言う
「指月の月」という禅語がある。月を指し示す指を見るのではなくて、指が指し示している月を見よということである。「言葉」はあたかも指し示す指の如し。言葉の分析・研究・理解にとどまらず、言葉の彼方の「月」をこそ観ずる必要がある。
言葉はコト(出来事)のハ(端あるいは葉)であり、客観的事実を表すものである。その後注解や解釈やさまざまな理屈が起こってくる。これらは分別心の働きである。
しかし、いつの間にか真実を見失って言葉(観念言葉)がひとり歩きし、言葉の戯れが生じる。これが世の常である。
さて、内観では客観的事実としての「コト」の「ハ」を観るのであって、解釈や心理分析をするのではない。コトバで表現される客観的事実の彼方に輝いている月を感得するためなのだ。月、それは「親心」であり「神の御心」である。そして更に、月の側から、執われのわが身を観ずるのが内観である。
(「息吹」21号 2004年4月より)
「とどまり、ながめる」
世界や社会や組織団体は、刻々と動き変化している。特に21世紀の現在はそれが激しい。変化に伴い、人の心も揺れる。不安に陥り、自分を見失い、あるいは何かにしがみつく(依存する)。そんなところに宗教もあるのだが、宗教組織も揺れ動きその様が変わっていく。人々の不安は、以前より深まる。
東洋の智慧と実践はその点、大いに優れた遺産を引き継いでいる。すこし、動くのを止め、静かにしてみることだ。生きていることの原点に立ち止まり、存在の根源を丁寧に確認する。呼吸法がそうである。『止』と呼んだ。精神医学でも最近、薬だけではなくて、呼吸法の大事さを説く医者が多くなった。
他方、人間の煩悩や病は『気』から生じている場合が多い。意識を持った人間であるがゆえに『病む』。意識的な考えや欲望に偏った思考枠や思い込みなどをつくり出し、病い(闇)へと導かれ手いる場合が多い。根深い煩悩が人間を苦しめているのだ。そうした客観的な事実としての自己の迷いぶりをシカと観て、本来の生き方への回心する。それを『観』と呼んだ。
『キリスト者のための内観瞑想』のプログラムでは、呼吸法と自分の心の様はどうであるか(内観)、つまり『止と観』を双修している。
(「息吹」22号 2004年9月より)
「呼吸 肚(胎)いのちの生」
内観中も、いほりでの生活にも「呼吸法」を大事にしている。呼吸法では「呼気」が大事である。
口から細く長くゆっくりと吐き出す。心が臍下丹田(肚)にまで降りてゆくような感じで深く吐き出す。吸うのは自然に任せる。意識して吸わなくとも充分に吐き出せば酸素は自然に入ってくる。これは生理的な自然法則である。
座禅でも、武道でも、茶華道でも、日本的なものは呼吸法を大切にしている。共通しているのは、「肚」をつくることである。これは、頭でよりも大地に根ざした肚(字が表しているように)で生きるように促している。呼吸法によって肚が出来てくる。呼吸法によって呪縛から解放されて本質を観る智恵が湧いてくる。頭は分別・差別、迷い・競争を育てる傾向にある。肚は心身の調和というか素直な自然体をはぐくむ。
呼吸法を続けて肚が坐ってくると、迷いや動揺が少なく成るのは臍下丹田(肚)の中に内在(胎蔵)している自然の摂理・超越したいのちの源(主)・本質を覚えるようになるからだ。そうなるためにはにんげんの側からの努力も要るがあちら様からの注ぎ(恵み)によってそうなる。古今東西の聖者たちは自分たちの究極体験(悟り・神体験)を東洋では「胎蔵思想」として、西洋では「神の内在思想」として顕し人々をもこれらの超越体験へと導く。
(「息吹」23号 2004年12月より)
インマヌエル
こちらから観ると、あれもせねば、これもせねばと煩わしいことが沢山ある。
あるいは世の現象の荒廃…、
正義と平和に背くことがあまりにも目に付く。
他方、インマヌエル(主、あなたとともにいます)と呼ばれる方がすでに来られ、いつもともにいてくださることを私たちは確信し、
そして再び来られるのを待ち望んでいる。
そのお方はこれらをあちら様からの眺めとして私たちに示され、私たちはそれを受け入れた。
前者に身を置きつつ、後者に目覚めて、心で温めつつ生きている。
この生かされているいのちを、
日々深めていくのが、
心の内なる旅の生活であろう。
その方便として、内観があり、呼吸法がある。
これは現象界への無関心や内向きな姿勢では決してない。
いのちの土台というか、屋台骨をしっかり見据えることであり、
救いの道を自覚的に生きてゆく道なのだ。
(「息吹」27号 2006年4月より)
学校内観
あるミッション・スクールのシスターが内観され、それを生徒達にも経験させたい・・・との思いが出てきた。別のシスターも自ら内観に参加し、小学校卒業直前(小六年生)の宗教の時間に、母親に対する自分を調べる授業をしたら、生徒の母親への思いがすっかり変わったとの報告・・・。
そうした学校側の積極的な取り組みと先生達の準備があり、学校内観をさせてもらう機会を得た。高校2年生と3年生の300名が、一同、講堂にあつまり、まずは、立腰をし、呼吸法から行う。こういうときに例の25cmの大きな鈴を鳴らすことは助けられる。先生方も呼吸に集中している生徒達の静寂な「気」に圧倒されたと・・・。驚くほどの静寂が大講堂を包む。
年代順に、母親に対する自分を三項目の枠で、説明・誘導しながら調べてもらう・・・。せいぜい15分ばかりの内観黙想だ。その後、個別面接は行えないので、調べたことを、記録用紙に記入する。
調べと記入後、体育の先生方の指導で、リラックス体操というか、リズム体操というか、楽しく体をほぐす操法。お互いにマッサージをしあうなども入れ、TVのその種の番組も顔負けの、生徒の心をよくつかんだ上手な指導であった。
全員の様子を伺いながら、私自身の経験談などをも話して、参考にしてもらう。
以上のような内容で、8回ほどのミニ内観を繰り返す・・・。
終了後、各クラスで分かち合いやミサの準備。
効果は・・・。
半分以上が何かをつかんで貰えばよしとする。が、実際のアンケートでは、80%以上の生徒はこの初めての経験に、母親に対する感謝の心が育ったと述べていた。若い人ほど、素直だ。それを育てる社会の責任は大きい。
有難い学校内観の二日間の同行体験であった。
(「息吹」28号 2006年8月より)
いただきます
内観というと、仏教臭いとはじめから避けて通る人が多いのですが、
これは、人間、いのちあるものの、自然の営みに沿う生き方を、
再学習することなのです。
最初にくるのは、いのちをもらっていることの再発見です。
していただいたこと、お世話になったこと。
他者のいのちと引き換えに、私は生かされている事実に気づくことです。
これは言い換えると、私は愛されている存在であることの確認なのです。
これを当たり前と思っているところに罪があります。
罪とは考えの歪みです。愛の無視です。
実際は、偏食、食えない、好き嫌い、頂けないものがあります。
そこに、人の我執・我欲があります。
ものを頂くには、考えの変更が必要です。
「私が」の「が」を小さくしてゆくことです。
ここから人間の本領発揮。
(「息吹」29号 2006年12月より)
死と新生
人生は日々、死に向かっているが、普通、人はそれを問わない。
死を問うとは、自分がどう生きているかを問いかけることでもある。
多くの場合、自分を問うよりも他者や外観を問う。
あるいは、アハア、アハアと人生を楽しむことのほうが大事なのである。
内観が向かうところは、究極的な問いかけ、「死」である。
しかし、それは「生」を十全に生きることでもある。
自分はどう生きているかの問いである。死んだらどこへ行くのか。
こうして、死を見つめて、真実で悔いのない人生を選んでゆくのである。
イエスの「死」の意味はなんだったのか、そして、自分はどう生きるか、と弟子たちや初代教会の信者たちは問い続けた。
旧約の預言者たちの言葉や贖い思想を借りて説明をもする。
私の好きなところは、むしろフィリッポ書の2章のあの箇所である。死に至るまで自分を空しうし・・・死に至るまでへりくだって…御父に従われた…。
「死」とは、自分自身を「いのちの主」へ「渡す」ことであろう。
「委ねる」と表現する場合もある。
「いのちの主」へいのちを「お返しする」ことであろう。
いのちの主はそれを受け取り、いける人々へ渡して活かす。
そこに「生命」と「愛」の循環がある。
(「息吹」30号 2007年4月8日復活号より)
2007年が終る
★ 2007年が終る。この年は、私にとって節目であった。「キリスト者の内観」の向かうところは「内なる世界」「神との一致」である。昔から大事にされていた「神の神秘」を味わうところへと運ばれることであり、これを強く感じさせられた一年だった。内観同行は、私にとり、一つのよい意味での司祭としての人々に向かう「方便」である。感謝している。やがて体力がなくなって同行行脚が出来なくなっても、神に向かって「神秘」を味わい続けることは出来る。うれしいことだ。2008年も神の手の中で。
★ 「心の内なる旅」が続く。10月のモンセラート・ルルド巡礼もその一つ。空間的移動の外観景色に終らず、魂の深層への巡礼でもある。そこで出会うのは東西の霊性の違い。しかし、それは表面でのことで、深層では東西が同じ根に根ざし、いのちの主への深い憧憬であり、礼拝であるということ。同じ合掌心から出ているのだ。
★ 日本内観学会が毎年行うワークショップがある。2007年は内観発祥の地・奈良において第19回内観療法ワークショップ(10月27、28日)があった。「混迷する現代が求めるもの」という総合テーマで、キリスト者の立場からの講演を依頼された。外向きの生き方が「混迷」を生み出し、そこから正気へ戻るために内観があることを話す。教会の「外」で福音の説く「内面的」領域の催しがあるのは、愉快だ。神の霊は自由で、制度的な教会という制約からも自由に働く。これも時のしるしか。
★ この間、新装改訂版『ナムの道もアーメンの道も』が教友社から出版された。多くの人の目に留まりますようにとの願で自腹を切って出版した。読者諸氏のご協力を願う。インターネット(アマゾン)・キリスト教関係書店・センター事務所で手に入れることが出来る。本書のすごいところは、禅ブームの中にあり、人格神的な阿弥陀如来に合掌する心を積極的に述べていること。また、宗教的な根源経験(ナム・アーメン)をどう捉えるかの一視点を出したこと。
★ 毎年8月(夏)の内観希望者は多い。2008年は会場予約の加減で姫路・仁豊野・聖マリア病院隣・修道院リティロ(祈りの家)を会場として確保できた。内観希望者があるが、毎度、会場確保の苦労もついて回る。それも覚悟の上でこの道を歩んだのだが。おかげで全国を回ることが出来るのも神の計らいか。
★ 内観経験者たちが動き出して、ミニ内観をしてみようとの機運が強まってきた。神奈川県在住の人たちが中心に年2回の集いがある。よいことだと思う。キリスト者の内観が全国様々なところで開かれると、日本の教会も深まるだろう。また救われる人も増えるだろう。
★ 息吹の前号にて、故ハンド神父(イエズス会司祭2005年帰天)のことに触れた。すると彼の三冊目の本、『風しずまるとき』(サンパウロ)が届けられた。サブタイトルが、悟りと本当の愛の物語り、とある。「小説」であるから誰でも読んでもらえる。ぜひ、多くの人に読んでいただきたい。東洋、日本、仏道を誤解している(とりもなおさずそれは、神やキリストの誤解でもあるが)教会内部の人々があまりにも多い中で・・・。
西欧式カトリックの限界と無理が、とりもなおさず西欧自身の内部で明らかになってきているので、生身の深みにおいて信仰を読み直すきっかけにでもなれば。本書はやはりアメリカ人の書いたものである。我々にとって説明の必要のない事柄までが、非東洋人の思考方法に訴えるかのように説明的に話されている。しかし、東洋的心情を非東洋人に伝達説明するには、こういう本が助かる。 (息吹32号より)
いおりの霊性・坐力
「息吹19号」(2003年10月)の巻頭言に「いほりの霊性」を記した。「いほり」は「いおり」をさしている。「庵」である。センターの事務所にも「心のいほり」としてある。なぜ、「いほり」と記したかと振り返ると、メリノール会宣教師の故ヘーシベック神父が東京・大森に「こころのいほり プレィヤーセンター」を開き、そこを訪問した時の印象が残っていたからかもしれない。
日本で宗教的営みをなすものの住まいは、コンクリートなどの堅牢な建物ではなく、ある程度の自然に囲まれた草庵風になっている。そこで単純な生活と思索・瞑想がなされる。禅の十牛図の第七番目に「忘牛存人」という絵があるが、修行を終えた一人の僧が草庵に独居し、座しつつ、更なる瞑想をしている。度々、その絵が脳裏に浮かんでくる最近だ。
現在の家に移り満六年を経る。庭に樹木の多い平屋一軒家に住み始めて、「いおり」が実現したと喜んでいたが、最近ようやく、そこで「坐」する味を知り始めてきた。内観行脚以外は、出来るだけ庵にとどまり、日常生活の労働をし、事務をこなし、祈りと思索を深める。坐して自分の内面に入り、聖読書と聖体祭儀を行い、内なる神と共にあることを味わう。まだまだ、内外の騒ぎの多いものであるが、いい方向へ行っていると感じる。
小さな自分の祈祷室に「坐力」と書かれた色紙がある。ある観想修道女が贈ってくれた色紙だ。ユダヤ人にノーベル賞受賞者が多いのは、幼い時から聖書を暗誦するために坐して数時間を過ごす、その坐力の故であると、何かに書かれていた。神の前に坐す時間なしには、つまり、「坐力」なしに内観の奉仕職は誠の他人の救いの力とならず、人間的努力に終るだろう。
(2008年4月 息吹33号より)
原点
相当、世の中が乱れている。制度や構造を改造し、経典の研究などでよくなるはずはない。一人一人が、生きていくことの原点に戻られねばならぬ。
人生とは、オギャーの吐く息から出てきて、息を引き取るまでの間のこと。
その間、きちんと呼吸しているだろうか。原点の出息入息の呼吸を調えることから始めよう。坐って、呼吸を調えることが、すべての最初にある。深い呼吸をし、意識を「頭」から「肚」へとおろすことに集中せよ。
頭の中での騒がしい「考え」「問題」などの「思い煩い」からはなれて、意識は、心身の中心であり重心である肚(心の深み)に行く。汝の肚に、汝の丹田におられる「いのちの根源であるお方」に思いを集中せよ。
パソコン、ゲーム、携帯などが人類に浸入してから、白黒式の二元的・対象的思考に陥り、人はきれやすくなった。忍耐力を失い「息が短く」(出エジプト6の9)なってしまったのだ。結果、人は人間の心を失い始めた。坐って、丁寧に呼吸をし、頭をクリアーにし、自分自身に立ち戻ることは、いのちにとどまり、いのちの主(神)にとどまることだ。
回心とは、「問題(プロブレム)」を解決しようとする外向きの生き方(救世主コンプレックス)から、いのちの「神秘(ミステリー)」を味わうことに向かうことだ。これは「永遠のいのち」への宇宙的な巡礼である。
主は、おおせられた「まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい(神秘を味わう)。そうすれば、これらのものも(問題解決)皆、加えて、与えられるだろう」と。
(2008年夏号「息吹34号」巻頭言より
相と層
司祭叙階の頃(1973)、胃の縮まる思いをしていた。教会は公会議後の刷新の最中、激動の時で、百家争鳴の様相であった。何かを生み出そうとする激動の時であったのか、それぞれ自分を確認し、あるいは自己防衛するために、自己主張をし、「我」のぶつかり合いをしていた。進歩と保守、左傾的なものと右傾的なものとが争い、愛と平和、落ち着き、静かさがなかった。お互いを疑い、他者をいろんな意味で支配しようとしていた。神父になりたての若い私は、自分の入る(おる)隙間も見出せなかった。それで苦しみ、悩みを一人抱えて、一種の心身症的症状を示していた。
一律的な教会の姿から脱皮しようとして、様々な「相」が咲き乱れていたのである。そんな中で、「前後左右」でもない、別の「相」を見つけて、それなら自分も居場所があると考え、喜び、飛び上がって叫んだ。「まだ、上下がある。高みと深みがある。」と。深層への招きだった。21世紀の初頭のいまも騒がしく、「相」の違いから来る争いが繰り返されている。「我」の「音」が著しい。心痛む。
さて、「そう」には、「相」と「層」がある。先の「上昇や下降」は、意見の相対的な多様を表す「相」ではなく、「層」を意識させる。水平的な観点から、垂直的な「層」の領域を気付かせる。パウロ6世教皇の『福音宣教』で示された回心の方向である。それは信仰にあってより主体的になり、より様々な呪縛から自由になり、宗教間の対話も可能になり、より深層に唯一の神を求めるようになり、より神秘的になる。
信仰を質的に変える(メタノイア)促しである。神でありながら人となり、しかも十字架に至るまで自分を空しくし、へりくだったイエスの受肉の姿への招きである。自らの内面の暗闇にまで、福音を下し(受肉させ)、キリストの光で価値観を変容させる。表面的な層から深層領域での生き方への促しの課題である。
若い頃、愛読したテイヤール・ド・シャルダン神父の著作集『ある思想の誕生』のどこかで、「真理をみた者は、喧騒なアゴラ(広場)を離れ、砂漠にしりぞく」と述べていたのを印象深く思いだす。彼の場合、「相」の違いから生じた「排除されること(捨てられること)」(詩篇118の22)に身を任せ、しかし深層において、より一層、時間と空間を越える層、神秘の中で現象を味わい直す。そしてそういう魂は宇宙意識として、やがて地球全体の聖化を目指し、内部から変えてゆく道を調えた。(息吹35号 2008年クリスマス号より)
土の器
T 私どもは、「神の息吹」を吹き付けられて、神の前に「生きたもの」(ハーアダム)となりました。わたしたちの呼吸は、もはや、他の動物たちの呼吸と違い、神の息を吸い神に返してゆく呼吸となっているのです。こうして神の子として生きるのです。この意識を忘れる時、我と欲にまみれ、動物的な生き方(狂気)になってしまいます。
新約聖書は、私どもの中に神がお住まいになっていることを教えます。ヨハネは御父も御子も私たちの中にお住まいになっているといいますし、パウロも「あなたたちは聖霊の神殿です」といいます。ですから私どもは神が内在していることを体験するように、召されているのです。私たちの限りあるいのちが、永遠のいのちに参与できる(救いをうる)のは内在するイエス・キリストを知ることによってそうなるといいます。
しかし、地上での仮の住まいでの呼吸はまだまだ「ため息」混じりでしょう。滅んでゆく「外なる人間」ではありますが、「内なる人間」としては霊(神の息)によって日々新しくされて行くのです、とパウロは励まします。(コリントU4章)。私どもは土の器ですが、その器には、神のものである永遠の宝が入っているのです。それゆえ、静止する呼吸のひと時によって「正気」に戻る必要があるのです。
U なぜ、内観するのでしょうか。様々な動機でするのでしょうが、向かうところは、キリストとの親しい一致を願っているのです。召されたキリスト者の魂がまだ「ため息」の状態であるので、キリストにおいて「正気」となって行くべく、霊に照らされて自分を反省することから始めるのです。自分に死んで、キリストにおいて生きるためなのです。こうして生きていて、キリストの栄光の輝き、変容の神秘に預かりたいと願って内観するのです。
こうした考えで、教会の初期は自らの内面の反省、心の動きを見張ることをとても大事にしてきました。それはキリストとともに日々新しく生きたいという渇望のためでした。すこし前までは、キリスト教徒の生活指針として、良心の究明とか意識の究明をとても大事にしてきていました。今はむしろ「世の構造的悪」
という外在的・現象的事象の究明が盛んです。これも時のしるしなのでしょうか。
V ところで、日本においては自らの内心を反省せよとの教えが伝統的に著しく、その霊性に生きている人々が大勢います。宗教的な立派な仕事をした人々は、一様に内なる人としての内的経験の豊かな人でした。要するに内観的な思考を持ち合わせていました。日本でのキリスト教の宣教は、こうした人々の魂に響くものとして差し出すことが出来ますように。そのために私も回心して内観同行者としての使徒職をさせていただいています。
W いま「パウロの年」です。活動的な宣教師であったパウロ自身は、同時に内観の聖者であり、キリストの神秘を内なる心で経験していました。それなしに彼の苦労に満ちた宣教、燃える説教はありえなかったでしょう。どうか、言葉としての聖書を知的情報として読むだけではなく、あるいは研究の対象として頭の上部に蓄えるのではなくて、自らの内面の出来事と照らし合わせて、神の神秘を体験しながら、み言葉を食べて、はらにまで下すことが出来ますように。また、神の神秘を、心で味わう祈る人が増えますように。高齢者たちは、彼岸へのいのちの準備として、永遠につながる事柄へ、残された少ないエネルギーを費やしますように。(息吹35号 「内観の心」より)
砂漠の師父の内観
『汝らのうち罪なき人は先に石を彼(女)に投げ打つべし。』(ラゲ゙訳 ヨハネ8の7) 他人の罪を批判し、あばこうとするまえに、隠れた事を見ておられる神のもとに「自分はどうであるか」を調べると、他人を裁けない自分がいる。
『ある修道士が、罪を犯した。司祭がかれに、共同体から遠ざかるように命じた。そのときベッサリオーネ上人が立ち上がり、こう言って出て行った。「わたしとてもまた罪人である。」』(「荒野の師父のことば」 ヴァンヌッチ編 須賀敦子訳 P96 ユニバーサル文庫 昭和38年)
これは次のヨハネの手紙を知って、絶えず自分の心を内観している者がとる態度であろう。『もしわれら罪を犯したることなしと言わば、神を虚言者とし奉るものにして御言葉われらにあらざるなり。』(ラゲ゙訳ヨハネ一書1の10)
『また、ひとりの修道士がヨゼフ上人にたずねた。「もしも、他人の罪に気がついたら、それを言うべきでしょうか。それとも、黙っているべきでしょうか。」かれに向かって上人はこう答えられた。「われわれが隣人の罪を隠せば、神もわれわれの罪を隠してくださる。が、兄弟の罪をあらいたてれば、神もわれわれの罪をあらいたてられる」と。』(荒野のことば 同上 P98)
(2009年4月 息吹36号より)
三つ子の魂、百まで
内観で調べる時に重要な時期は、幼少年期にある。
たとえば、21歳の青年が進路に迷ったり、場合により心の病を抱え持って、自分のアイデンテイティがわからなくなったりして、じっくり見直そうと内観に来られたとする。その際、青年期に入ってからの目の前の問題や闇(病み)を分析・詮索したりしない。生まれてから、幼少年期(小中高学生時代)までを、注意深く調べる。
その時代に、すでに様々な答が隠されているからだ。どこで喜喜としていたか、何に長所が現われていたか、愛の体験は・・・いつ自我の主張があったか、どのような傷があったか・・・。また、「うそとぬすみ」のテーマも重要だ。理屈や弁解を避け、客観的事実を、積み重ねていくという調べ方である。
教会の2000年の歴史について考えるなら、100年を1年とすると、21歳の青年とみなすことが出来る。
「三つ子の魂百まで」といわれるが、教会誕生のはじめの3歳、300年まではどうであったか、その後、就学前の6歳(6世紀)まではどうであったか、9歳(9世紀)、12歳(2世紀)・・・という風に、神の導きと人間の我執を見直す。
今日、教会自身が内観するとするならば、はやり、はじめの300年はどうであったか・・・という風に、原点に戻り、自分のアイデンティティや最も生き生きとしていた時期を調べる事が大事であろう。
21歳の青年が抱え持つ、目の前の諸現象や問題をほじくっても、真実は見えてこない。すでに様々な呪縛ゆえに苦しんでいるのだから。
教会が東西の特色を示す以前の時代に、尋ね直すことが必要なのだろう。
(2009年・息吹・夏号・巻頭言)
その名はイエス
大天使ガブリエルがマリアに告げた。「生まれる子の名は、イエス」と。
それ以来マリアは、受胎してから誕生までの十ヶ月間、どれほど多くの回数を、胎内の子に「イエス」と愛のこころをもって呼びかけていたことだろうか。
その後も、マリアは生涯、母親の心で「イエス」という名を口ずさんだ。
その都度、マリアの心は三位一体の神の内にとどまっていたことだろう。そして、今も、キリストの体である教会を眺めつつ「イエス」を称えていることだろう。
クリスマスの祝いは、人を神の子とするために、神の子が人となった事を祝う。
私たちがもう一人の「イエス」となるために、マリアは私たちの中の「イエス」に、母心の慈しみの心で今も「イエス」と呼んでくださっている。
この事を自覚する人にとってのクリスマスは、まことに「神秘的で静かな聖夜」、「神からの平和」を味わう人であろう。
さて、イエスの御名を「呼ぶ」(称名)ことは、ギリシア語では「エピクレーシス」という。通常、ミサ中の聖変化前に司祭が祈る言葉をエピクレーシスといわれている。
イエスの御名をマリアの心をもってエピクレーシス(呼び求める・称名)するなら、各自の内面において、イエスが共におられることを感じるだけではなく、さらにその人自身が聖変化して行く、世界もホスチア化して行く・・・。
すごいことだと思う。
だから「信仰の神秘!」と応答する。
(2009年12月クリスマス号 巻頭言より)
復活と絆
はじめ、神と人の絆は夫婦以上のものであった。しかし、アダムとエ
バは、知恵の木の実を欲しさに、自分達から神との絆を切るような事を
しでかした。その息子たちも絆を切る争いを繰り返す。とうとうバベル
の塔の事件では人間の傲慢は極みに達したので、神は人びとの絆である
言葉を通じなくした。
これを修復し、霊による一致の絆を造られたのが、イエス・キリストの
受難と死と復活の出来事であった。放蕩息子の喩えにあるように、罪深
い我々にも拘らず、もし本心に立ち返って御父の元に返るならば、御父
は喜んで迎えて、神の子としての尊厳な絆を回復してくださる。
絆を切る。ここに罪がある。自己中心的なもの、この世を支配する我
慾の価値観。無縁社会。そこから、再び、絆を回復するには、赦しと慈
愛の価値観がいる。恵みによって回復していただく。その恵みを願う。
単純な呼びかけである「イエスのみ名」を孤独の淵から御父に捧げるとき、
人類に言葉の混乱から、真の(霊の)言葉の回復が起る。
内観は、家族・肉親、人間関係の回復、共同体、神と人との絆の再構
築を目指す。自分の未熟さや自己中心的な傾きの自覚。そこから、正気
に戻り、霊の生き方へと新生する。そこでは正直さと謙虚さが必要で、
実りは魂の平和である。
(息吹39号より)
教父・師父たちの内観へ
内観を重ねながら、内観的思考方法の背景にある唯識思想や親鸞の称名念仏を学ぶ。そこでは意識の内面を紹介し、「究極」に向かって生きる「道」を教えていた。目から鱗であった。カトリックではどう教えているのかと尋ねて、アビラの聖テレサにおいて再発見し、生活を調えることについては1500年前すでに聖ベネディクトが教えていた。
こうして、内なるまなざし(内観)こそ神に至る道であり、信仰教育において伝えねばならない感性であると確認するが、社会活動をこそと選択した多くの人々の耳には届かない。それはいいとして、仏教的土壌から出てきた「吉本内観」を「キリスト者のための内観」として、福音の文化内開花の課題を背負って、また、自らの回心と魂の司牧のために、一週間の集中内観の同行を重ね、同行行脚を続けて、すでに十数年経つ。
当初から、「砂漠の師父や教父」たちにキリスト教の内観の極みがあると予感していた通り、彼らは真に神を求める人達の群れである。第二バチカン公会議で語る、キリスト教の源流である「東方教会の霊的樹液から学ぶように」との勧めに従いたい。そこで見出すのは、自分の内面を知らずには、真実の神との出会いもなく、社会への感化力もなく、もちろん福音宣教の稔りもなく・・・との教えである。
ひたすら自己の内面に向き合う(内観する)ならば、魂の散逸、思い煩い、行動の一貫性のなさ、うそと盗み、嫉妬、自己中心、情欲、傲慢・・・などなどに満ちている姿が見えてくる。要するに、救われていないままの姿である。砂漠の師父たちや東方教父はそういう姿を隠さずに、正直に心の動きを見張り、聖霊によって作り変えられるように祈り叫んだ。ここに、真の謙遜なキリスト者の姿、内観者の極みがあった。教会の再生は、仏道から刺激をうけて、キリスト教の源流に戻つて内観する事だと教えられている。(息吹40号より)
霊的ということ
この秋に、韓国において、日韓中の「内観」の専門家たちが集まり、近年著しく増加している「鬱(うつ)と自死」のテーマで発表された。私は「内観における霊的介入」という観点から話すように依頼されていた。本来、内観は「求道法」として出発していたので、「霊的(スピリチュアリティ)」性質を持っていたが、今一度、それを確認することにより、内観が人々に生きる上での大事な領域に目覚めさせるという意図があったのかもしれない。
スピリチュアリティのもとはラテン語でスピリツス、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアハである。原意は「風」「息吹」「息」「呼吸」「霊」である。生きてゆく条件として「息・呼吸」があり、さらに「神からの風、息吹」を受けて動物が人間(アダム)となった。「神の息吹(聖霊、神のことば)」を吸うことにより、「万物の霊長」「神の似姿」とされた。それらしく生きるとは、毎日「深い呼吸」をして生きることである。結果として、本来の健康が生じ、さらに「霊的な人生」が動き始める。神は人間をそのように創造した。
現在、社会で激増している「鬱(うつ)」という現象も、本来、木々が盛んに茂り、生命の充満さ、その過剰さゆえに息苦しくなり、成長の方向感覚を失っている状態である。太陽の光が届かないゆえ、手入れされていないままのエネルギーが過剰状態ゆえに陥る症状である。太陽からの光を妨げている枝や葉を切り取り、方向を見失っている幹や枝を矯正し、生き直しするように導く。本来の生命エネルギーである「光」を浴び、向かうべき「目的」に向かうようにする。そうして回復が生じる。これは薬によって解決できる問題ではない。心の問題である。
光は闇に来たが、闇は光を受け入れなかった。しかし、闇は光に勝つことが出来なかった。光を受け入れた者は神の子となる資格を得る。(ヨハネ一章参照)今年もまた、キリストの託身を、希望のうちに祝う。
(息吹41号巻頭言より)
神のいのちの中で
房総半島の外房、千葉・白子町にある「十字架イエス・ベネディクト修道会」で内観中のこと。2011年3月11日、午後2時46分、震度9という巨大地震が東北・関東地方を襲った。白子でも、ゆりかごにいるような激しい揺れであった。地震のあと津波・原発破壊・・・大変な事態になった。被災した多くの人々のために祈りと犠牲を捧げる。
それでも、いやそれだからこそ、今、復活祭を祝う。復活。それは物質的な肉の体が蘇生することではない。復活は体と密接に繋がっている霊魂の不死の故にあるのだが、かといって死後の命のことだけではない。「キリストのいのち」に生きることが復活に生きることである。キリストはいのちの根源であり、彼は復活し、今も、いつも、世々におられるから、キリストと共に生きることが復活である。キリストのいのちを「いま、ここで」生き始めるのが、復活信仰に生きるキリスト者であろう。
では、各自が自問自答してみよう。私は「生きている」だろうか。それとも「生きていて死んでいる」のだろうか。目的喪失。未来の暗雲。希望のなさ。そういう状況の中にありつつも、キリストが私と「共にいる」ということを「生きている」だろうか。さらに、キリストが「共にいる」ことから、キリストが「私のうちにいる」ことを「生きている」だろか。
ここから各自の魂の内部での「内観」が始まる。「生きていて死んでいる」状態の自分が、「生きていて生きている」ようになりたい。人生の真の目的を見出したい。こころの闇・病みから、解放されて、キリストのいのちに生きたい。だから内観する。自分(自我)に死んで、キリストに生きたいので「内観」する。
内観の実りは「新生」である。内面から刷新されることである。全てに感謝できる心境をうることである。つまり、復活のいのちを生きはじめる事にある。
2011年4月 息吹42号より
共同体から協働態へ
教会内で「共同体」と言う言葉をよく耳にする。しかし、この言葉を、しばしば、社会学的(政治的)用語として使ったり、そう理解してはいまいか。そしてこの言葉の呪縛により、力や義務によって強制され、多くの人々は不自由さを感じているのではないか。もとのギリシア語はエクレジアであり、一人一人の魂に吹いた聖霊によって集められ、霊の火の燃える形態を表している。
そんな時「協働態」という言葉に出会った。深層において手繰り寄せられるように、考えや志を同じくする人々が収斂的に出会い、今までの価値観や概念を乗り越えようと、より深くて、より広く、より遠い眼差しを持ち、力をあわせ(協)て働き始める姿(態)として受けとめた。「協働態」という時には、制度や法的な枠組みとして使われる社会秩序的な「共同体」とは違い、生成発展し、流動変化し、進化し続け、変容を願って、より高い目線で将来を眺めて協働する。全てを包含し、共生(相生)において完成しようとする温かい聖霊の「息吹」、生命の躍動を感じさせる。
一人一人が自分自身に出会うとき、私自身よりも深層にあって働くいのちの主である神の運びに載るようになるのではないだろうか。法的な枠組みである観念や秩序により「共に」させられたのではない、深いいのちの主の息吹に吹かれてのゆるやかな超共同体(協働態)の出現へと収斂されていく。それこそが神の望む民・神の国の出現ではないだろうか。
自己の生涯の出来事を振り返り、それらを一つの視点で「物語り」始める時(内観)、各自は自分の魂の深層において、必要とされてかけがいのない命を生かされていることに目覚め、新しい地平に生き始める。この目覚めを信仰という。各自が内観の道を旅すればそういう境地と出会い、真の共同体(協働態)を準備するのではないだろうか。(息吹43号より)
深層崩壊
脱原発が提議する宗教的課題
よくニュスで報じられるが、大雨が続くと土石流や山崩れが生じる。ところが土砂災害の際、山の上の方で、岩盤と数万年かかつて堆積して出来た土砂の隙間に雨水がしみ込み、表面の堆積土砂が岩盤を滑るように大規模に雪崩れることがあった。その結果、道路を遮断するとか、家屋数件を飲み込む事に終わらず、村全部を飲み込み押し流すということがあった。そういうのを「深層崩壊」と呼んだ。
3・11、春の大震災・大津波・原発事故という未曽有の出来事に際しても、同じことが言える。日本列島沖の深層においてプレートとプレートがぶつかり、幅200K・長さ500Kに渡る大地震と巨大津波が生じた。深層からの揺れが、列島を形作る構造そのものへの揺るがしに及んだ。まさに、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移り、海の水が騒ぎ、沸き返ったのである(詩篇46の3〜4)。
地震・津波の災害は人々の努力で、復興できる。しかし、目に見えない原発崩壊による、放射能汚染に対しては、我々の生活全体の深層から崩壊させる性質を持っている。「霊」のように目に見えない敵への恐怖である。
十年前の9・11おける、アメリカでのテロは確かに人間の仕業であった。今回の3・11は、天災と人材が複合した災害であった。どちらも、「安定」「安全」「安心」そのものの根底を揺るがす事件である。はっきり言って、経済的繁栄を目指すという価値観そのものの深層根底が見直すように促されている。真の幸せとはなんだろうか、と回心させられる。
価値観と思惟構造においても、似た現象が起こりつつある。自分たちが持っている価値観や常識(定説)などで、これこそ絶対正しいいと信じてやまない事柄において、実は、それらの根っ子から否定されてしまい、崩れてしまう。生きてきた全部が無意味にされるかのような虚しさに遭遇する。学問・教え・信仰の領域においても、「深層崩壊」が生じている。
イエスの教えは、律法を熱心に守るユダヤ教徒の信仰に深層崩壊をきたした。ダーウィンの進化論は、文字通りに創世記の創造物語を信じる当時の教会で、人々の聖書把握に関する深層崩壊を来たした。・・・。こういうことはたくさんある。想定されていること。教えられていること。信じていること。そういうことの中にも、果たしてこれでよいのだろうか、と深層から読みなさなければならない事柄がたくさんある。人も思想も時代も変化しているので。もう一度、50年前に第二ヴァチカン公会議において、聖霊によって予言的に示された諸事をあらためて熟考し、私たちの信仰形態を、深層(垂直)方向において見直すときが来ている。
21世紀は、従来の枠組みを破る、もっと人類全体(普遍的)規模の思惟へと脱皮してゆくようになるのではないだろうか。キリスト教においても西欧風の一地方の思考方法に深層崩壊が生じて、根源への回帰、真の岩盤(イエス・キリストそのもの)への回帰が行われるのではないだろうか。
こういう世相にあって、それに対処する信仰の姿として、一人一人が内面において、しっかりとキリストという岩に立脚していること、自らの在り様を根底においてキリストと結ばれていくために、恵みに支えられて(知情意が)浄化されていくという、信仰の旅を行う決意が必要であろう。これは各自が問われている事柄である。こういう領域において、東洋の宗教・仏道が経験してきた「行」と「智」は、三一神の「光」が放射されているものである。それらから学ばないままに行われる教会の営みは、PTAか自治会か政治結社の共同体的組織のように、神の味わい・光を感じさせない。また日本人の魂に響く宣教の力も癒しも生じない。
2012年
新しい暦がはじまった。2012年度は、何かと気になる年だ。
昨年来、日本では311の大地震・大津波・原発事故。政治、経済、国際関係の領域でも混乱中。ヨーロッパの金融危機。アフリカではじまった「アラブの春」・イスラムの民衆革命。様々な国での政治指導者の交替。地球規模での大自然の異常。こうした現象界においての混乱の度が深まってゆきそうだ。他方、これらを忘れさせるか如くに、快楽と暴力と狂気への邁進の現象もある。既成宗教への不信も数えられるかもしれない。
聖書は、これらの現象は預言者たちの口によって、前もって度々知らせている。主が栄光の輝きを持ってこられる前に、現れる諸現象である、と。
私たちの見方では、これらの現象を「外観」と呼ぶ。しかし、これらの現象は自らの内面における闇(病み・狂気)と連帯して存在していることを、謙虚に認めようとしている。これらの外的現象から逃げるわけではなく、眼を反らせるわけでもなく、しかし、自らの内面を正直に問う道・「内観道」(自分はどうであるか)を大事にしている。
自らの内面を清める(回心・メタノイア)ことは、内向きで個人的な事柄に終わるのではなく、社会的・世界的・宇宙的広がり(連帯)を有している事を知っている。
神の恵みによって、生ける神が自らの心の内にお迎えしようとする。
こうして、栄光の主の到来を準備し始めようとする。
新しい年を、主への揺るがない信頼のうちに、過ごそうではありませんか。
(息吹44号)
他力の内観
内観の初心者は、通常いわれている三項目を切り口として内面の世界へ降っていく。結果として「癒し」や「生きる道の発見」が生じている。内観が深まるに従い、「自己とは」「人間とは」「救いとは」「真の幸福とは」などの深い思索・洞察へ導かれる。そうした人間的営みとしての努力を「自力の内観」と呼んでおこう。
自力の内観とはいえ、生き方の反省・懺悔などは、神の光の元にある。我執や欲望、しつこい捕らわれや悪い癖などに向き合う時、祈らざるを得なくなる。浄めの道である。しかし、また、分別知とは別種のアチラの世界からくる、温かいもの・光に包まれるような感覚・暗闇の中に一瞬キラリと輝くものをいただくことがある。いのちの根源から吹き出てくるものに触れる瞬間であろう。自己を超える「いのちの根源主」の予感であろう。
このような内観では、自己中心的な我欲から出てくる様々な衝動の跋扈(ばっこ)を注意深く見守りながら、それらの動きは本性にしつこく付着した個人の力を超えるものなので、「いのちの根源主の名」を称えつつ、沈黙のうちに根源主の恵み・助けを待機する。祈りが真の「心の祈り」へと変化するときである。こうした内観は称名と並行し、称名によりさらに闇が照らし出され、また、囚われから恵みによってさらに自由にされていく。こういう領域、自力の限界を突破する内観は、もはや三項目という思考枠の縛りも消えてゆく。
懺悔・涙・嘆願などが中心となる自力の内観の要素から、「存在の根拠」の顕れを静かに待ちつつ、信頼の内に過ごすという、そういう「他力の内観」へと移行してゆく。こうした変化は、受難と死を経て「復活のいのち(新しくされた人生)」へ過ぎ越してゆく、各自が経験するはずの内面の出来事であり、信仰者の辿る道である。
(息吹 45号 巻頭言より)
うめきと他力
「救われたい」と誰でもそう望む。心身が「健康」でありたい。あるいは、生が「より善く」ありたいと願望している。それも「救い」の願望の一つである。復活を信じている者は、心身全体の復活(心身の健康、善き人生)を望んでいる。生と死(生老病死)を超えた、イエスの姿にあやかり。これが究極の望みであろう。そして、そうでない現実にあって「うめいている」。パウロはこの「うめき」すら、実は、聖霊がそのように祈らせてくださっている、という。
「うめき」は、やがて、神の子・主イエスの御名を呼ぶことへと導かれる。自力の混じった熱心さによってではあるが、絶えず呼ぶことへと伸展してゆく。そのようにスタートするしかないので。しかし、まだまだ、初心者であるから、苦しさから逃れるとか、御利益が欲しいからとか、目標達成するとか・・・の邪念が多い。
そういう「称名」なら、そのうち、必ず挫折が来る。なぜなら、相変わらず、神の霊によらず、自己の力によって、自己の目的に向かっているからだ。イエスの力に、すっかり、委ねきっていないのだ。神への「信」にもとずいてではなくて、自らの「行」に頼っているからだ。いまだ、自分の所作を眺めた、閉じられた内観や祈りの境地にいる。御父、御子、聖霊を眺めていない。神の力を信じておらず、自己の努力により頼んでいる。自分の努力で救いが来ると欺かれていたのだ。
そうではなくて、神の親心、私を救いたいとの神の驚くべき深い望みに出会うことが必要なのだ。神の顔を眺め、主の名を呼ぶように。ものを乞うしかできない無力な乞食(こつじき)のように、無心で信頼しきった幼子のように。身を神のふところにおいて称名させて頂いているという心境へと、恵みによって、移し変えてもらうことだ。そこへの橋渡しとして、静かな深い呼吸が手助けしてくれる。(息吹46号・巻頭言より)
信仰年と内観と祈り
本来の内観法は、求道法であった。それが、より一般に広がる過程で内観療法といわれるようになった。そんな中で、キリスト教の信仰をより深める方法として「キリスト者の内観瞑想」として手直しし、各地の会場を行脚し続けている。私の内観は、キリストへの信仰を身につける道としての「内観道」である。
自己とは何か、人間らしく生きるには、魂が救われるとは・・・などという人間の根源的問いかけに近づくために内観を行う。結果として、様々な人間の深層に隠れていた「闇」を解いてゆく。生身の自己に向き合い、救いがたき罪悪深重の根を知り、自己の力では脱出できないことをしり、救いのために謙虚に神に祈ることへと促す。こうして、「内なる人」として、魂の平安と感謝の人生を得て、神と人を愛する道である。これはイエス・キリストの教えに従うためになされる信仰の「実践道」である。
これはギリシア教父たちも、いのちをかけて行っていた信仰の修行であって、内観(「心の注意」プロセコ)と祈り(プロセウケ)は、表裏一体のものであった。内観なしの祈りは口先の表面的あるいは外的・習慣的な祈りとなり、祈りなしの内観はただの心理分析か自己詮索あるいは自己納得に終わる。
世相がより浮遊化し、格差化して、人々の悩みと苦しみが深刻化いく中での、キリストの降誕祭と2013年を迎えている。そして、人々は真実のもの、変わらぬものを自己の内面に迎えたく欲している。秘められていて、イエスにおいて明らかにされた神の救いの計画を、信じて生きるために、プロセコ(心の注意、内観)とプロセウケ(祈り)によって応えることが、「信仰年」にふさわしいことではないだろうか。
(息吹 47号 2012年クリスマス号 より)
フランシスコ新教皇様
3月13日に第266代の教皇様が選出されて、いま全世界・全教会は祝賀と期待の気分にいる。神に感謝!である。フランシスコという教皇名を選ばれた。これだけでも、すでに、一つのメッセージであるが、新教皇様は、アルゼンチンでの司牧時代から自らも清貧生活を実践し、貧しい人の隣人として働かれて、教皇就任後のわずかな期間中にも、すでにいくつもの従来の慣行を破り、簡素・へりくだりの言動を大胆に示して、模範を教えてくれている。
内観の世界では、「人は説教では変えられませんよ!」(吉本伊信)と表現して、話す言葉よりもその人の具体的な生き様を問う。口先の「ことば」ではなくて、「生きた存在」を通して語られる事端(ことば)をこそ、求められている。親・教育者・宗教者など、上に立つ者が心せねばならないが、何代にも渡り教皇様については、私達は本当に恵まれている。
恵まれているが、「お前はどのように応えたか」とは、聖金曜日の十字架賛歌で、何度も問いかけられたが、反省ばかりである。
聖フランシスコは、イエスを愛するあまり、イエスの痛ましい五つの御傷(聖痕スティグマ)を受ける恵みをも引き受けた。イエスを愛するとは、イエスと同じ道を歩むことで、イエスへの愛は、イエスとともに貧しさ、へりくだり、受難と死にあやかることである。その忠実に応えて、御父は聖霊によって立ち上がらせてくださる(復活)。
そしてそれは、こちらの力で獲得するものではなくて、霊が破られた(砕かれた)者のへりくだった叫びに恵まれる神からの恵みなしには生じない。謙遜な罪人の祈り(キリエ・エレイソン)をこそ、はらわたから出るようにしたい。
(息吹48号2013年4月)
ロトの妻
御存知、創世記19章のロトの妻の物語。神は、堕落しきったソドムの街を滅ぼそうとされた際、ロト一家を救うために、決して「後ろを振り返るな」と戒められた。街は噴火で燃え、家財財産は灰燼の煙となる。ロトの妻はつい後ろを振り返って見てしまった。その瞬間、彼女は「塩の柱」となってしまった。
内観では過去を振り返る。過去の私が、現在と未来の私を、重い碇のようにひきずって、私を不自由にしている。それを見極めて、へりくだるために内省する。しかし、「キリスト者の内観」では、過去の内省・分析に終始する懺悔に終わるのではない。もしそうだとするとロトの妻のように冷たい「塩の柱」になる。ロトの妻は、神の示した前方を見つめねばならなかったのに。私達はいのちの目的に進みたく、内観を深め続けている。
屏風の中で、ロトの妻と同じく「世への未練」を持ったままの自分があることを知り、神の勧めよりも人間側の都合で生きてしまっている自己を認めて、罪の許しと聖霊の助けを願う。その際、神の示され、用意された避難場所へ「逃げてゆく」のだが、その避難場所を知っているかどうかによって、内観の一週間は、全然違ったものになる。
神は御言葉(正しい逃げ場)を示すことにより、思考・感情・意志に正しい方向を示し、私たちを成長させ、前進させ、救い出し、新しい人間に再創造しようと望んでおられる。この神の翼の陰に「逃げて来い」との約束を信じて、まなざしを上昇へと向け直すときに、人生の目的が明確になり、人は「生きのこる」ことが出来る。これは一人個人の内面の救いの出来事だけではなくて、現代、人類全体が問われている内観(正気への目覚め)ではないだろうか。
(2013年夏号「息吹」より)
個人の「歴史」
内観は、過去の人生を振り返ることにより、受けた恩恵の感謝と、他者への報恩を調べ、自分がかけた迷惑(かけられたではなくて)を究明し、なおかつ、考え方と振る舞いの底に流れている自己中心的な我欲を見張らせ、謙虚な生き方へと促すのである。今世間でよく言われている「歴史認識」を、個人の次元で何度も繰り返し読み直し、「自己」の歴史解釈を深めていくのである。
切り口は、通常、身近な人に対する自己の態度を振り返るが、表面的なものから深淵にいたるまで、その程度は内観者の度量により様々である。我々の意識、認識は、承知のごとく、時代や文化や民族の制約とともに主観的で、かつまた、想念と情念に支えられた「限界」が、いつもついて回る。
しかし、有難いことに、まさに聖書はこの限界を破ってくれる。聖書は神の「憐みの御業の歴史」を綴っていて、それに聞き従うことで、過去の出来事を、神からの光に照らされて、読み直すように促される。内観者の視座は、人間の論理を超えて、赦しや癒しや救いを自分のものとして経験してゆく。これは正義や公平の論理を超えた、神の憐み(愛)の論理による「救いの歴史」を知った者の「信仰の認識」となる。
やがて、内観者は主観的で情念に支配されている知性的なおしゃべり(想念)を黙らせ、神が自分になさってくださった御業(歴史)を認識するようになり、神に賛美するような、そういう「内観」へ進む。これは、信仰の内面化の「道」である。それこそ、自己をも他者をも社会をも、歴史を内側から動かす力となる。「内観」が「内観瞑想」へと、「過ぎ越す」(渡っていく)所以である。御言葉に照らされて、日々、死して、新たに生きる道のりである。ハレルィヤ!ハレルィヤ!復活祭を祝います!
「2014年の春」
★ 今年の復活祭は、典礼暦でも一番遅い部類になるのでしょうか。4月20日です。イエス様の死から新しい復活のいのちへの過ぎ越し。闇が光に飲み込まれ。罪の嘆きから贖われ・赦された感謝と喜びの賛歌へ。挫折・失望から未来の希望への変容です。主の復活はすごいことです。
神が、天地万物を創り、人間をご自分の似姿として創った、その創造の業の完成としての出来事なのです。「万歳!!」なのです。そういう感動(神をほめたたえよ!)をヘブライ語で「アレルイヤ」と叫びました。
★ 内観瞑想センターをいろんな人々が支えて下さっています。お金の計算のできない私のために妹テレジアが帳簿を管理してくれ、住所録や息吹の製作のために兄ベネディクトがパソコンで管理してくださる。各会場ではシスターがたが生活・食事を奉仕と祈りで支えてくださり、面接のヘルパーの登場もあります。そのほか、「貧者の献金」として喜捨くださる人々のおかげでセンターの運営が。表には顕れてこないが隠れた「祈りの軍団」による取次ぎ。なによりも、教区司祭としては変わった生き方を、寛大に赦してくださっている大司教様の御慈悲があります。
★ 幼少時から「3月」には弱い私でしたが、この「春の行脚」は温度差の激しい日々で、しかも長引く風邪を押してのものでした。すべてを終えて、とうとう、血圧が上がり、頭痛とめまいと吐き気で・・・危ない! 12年前にメヌエル氏病で運び込まれたのを思い出し、急遽、安静と休息のために信者さんの経営する病院に自主入院。まるで、静かな「黙想の家」のようで、自分自身の内観的静養の時でした。
過日、「神父さま、引退などはあるのですか」と尋ねられたことがあり、「生涯現役だ!」と威勢のいい返事をしましたが、今までとおりの激務は避けなければならぬシグナルと、謙虚に受けとめました。
「弱さや限界」は、もっと、神と親しく、神にゆだねた生き方への促しであり、「老化」は「神化」のプロセスです。人間がより「精神的」「霊的」(オメガ点=終局点である「キリスト化」に向かう)に昇華してゆく道のりの経過点である、とはテイヤール・ド・シャルダン神父の思想であった。
(2014年4月 息吹51号より)
混乱したときには原点にもどれ
登山中、道に迷い、あわてて目先の道らしきところを探り、かえって、遭難することがある。そういう時には、無闇に動かず、静かに、そして、来た道に引きもどれ、原点・元に戻れ・・・が原則。
2000年間の教会の歴史を振り返り、この数ヶ月間、私の中で、深く感じたこと。キリスト教が西方へ進展する際、聖ベネディクトは東方教父(聖バジレイオス)から学び、祈りの学び舎(修道会)を創設したこと。その後、倒れそうなローマ教会を支えるために、アシジの聖フランシスコは福音を、砂漠の師父たちのように、徹底して貧しく生きようとしたこと。聖ドミニコは自らの霊的指導者として、カッシアヌス(5世紀に、東方の霊的息吹を西方に伝えた師父)を愛読し、観想したことを説教するという方法に導かれたこと。来年に生誕500年を記念する大聖テレサは、預言者エリアの精神に生きようとしたカルメル山の隠遁者たちの原点に戻ろうとして、改革カルメル会を興して禁域生活を通して教会に奉仕したこと。
こうして、教会の歴史は約500年のスパンで、大きく変化生成している。彼らに共通しているのは、西方教会の霊的再興のために、自らの源流である東方の霊的樹液を吸い込み、福音を自らの身に宿し、イエスを愛する者として深く生き直す道行きを再開したこと。聖者たちは「外なる人」から「内なる人」へと変えられて「内なるキリスト」と密接になり・・・との確認であった。要するに、皆、非常に内観的であったこと。
かの聖人たちのように、この混迷した世にあって、砂漠の師父達から、何を学ぶことが出来るだろうか。
教会が、50年前の公会議で確認したことは原点に戻り「聖書」を読もう、教会自身の「間違った道」の告白・懺悔があり、東方教会の霊的樹液から祈りを学ぼう、との仕切り直しであった。世にありつつ、神を顕してゆく決意の更新であった。
地中海周辺、およびヨーロッパ中心であった2000年間の教会の慣習を破り、聖霊は南米アルゼンチンから教皇を持ってこられた。選出されたフランシスコ教皇様は、率先してキリストの教えを示そうと話し、行動されておられます。これも原点に戻れという神の御意志の現われなのでしょう。ありがたいことです。希望を感じます。どのように私達は応える事が出来るだろうか。
フランスと韓国への順礼・行脚から
昨夏、15日間、フランスと韓国を順礼・行脚して、大きなお恵みを頂きました。その余韻は、まだ引き続いております。帰国後も多忙で、ダウン寸前でしたが、はり灸などをしてもらい、無事、持ち直しました。
順礼の主目的は、フランス・ノルマンディにある観想修道院で日本人修道女の黙想同伴することでした。黙想同行が終わってから、パリにもどり、列車で二時間ほどの田舎にある(ロシア系)正教会の女子修道院を順礼しました。魂が揺るがされる経験をした、三日間の滞在でした。その後(教皇様の韓国訪問の直後)、ソウルでの内観のために移動しました。カトリックの黙想の家を利用してのプロテスタント信者さんたちの内観でした。(総勢17名)
ヨーロッパにおける多くの信者の教会離れが目に見えてあります。かといってヨーロッパの人々がまったく信仰を捨てたわけではないと思います。教会に行かないのです。東洋的な瞑想などには関心があり、お寺、禅センターなどが盛況であると聞きました。また、移民してきたイスラム教徒たちが(空っぽになってしまった)教会を買い取り、モスクとして礼拝者が大勢集まるそうです。
(東方)正教会修道院での滞在では、慣れっこになってしまっている私達の、祈り、典礼、修道生活、世俗の中にありつつキリスト者の生活者のあり方、経済・物や富の使用方法・・・我々が通常としている価値観をこえて、なんともいえない「よい香り」を覚えました。信仰把握のどこかが違う・・・。なにを私達は置き去りにしてしまっているのか。とにかく、ここでは書ききれない、信仰者の「根底からの課題」を突きつけられていると感じました。さらに、そこにいる自分が、すごく惨めで、不信仰な存在だ、と感じさせられました。
彼らには、「宣教」という外向き活動はしないけれど、内なる神の現存を大事にしての生活や礼拝があり、人々はそこに「蟻が砂糖をかぎつけて集まってくる」ように、遠くからも集まってきます。微量だが正教会信者は、着々と増加しているそうです。
ソウル内観の後、リーダーの家に泊めてもらいました。翌日は日曜日だったので、家族の礼拝を司式して、説教をお願いします、と依頼されました。彼らはいつも聖書を手にして、生きかたの判断基準にしておられ、礼拝と御言葉に即した説教に飢え乾いておりました。
[キリストの一つの体]
強く考えさせられたのは、キリストの「一つの体」である「教会」のことでした。カトリック、プロテスタント、(東方)正教会という同じキリストにおける兄弟達が一つになるには・・・。
カトリックには位階制度のよさがありつつも、理性中心の呪縛傾向や教会離れの苦悩。聖書を頼りに個人生活を主体的に生きるプロテスタント信徒の個々の姿勢。正教会では古代からの伝統を保持する信仰枠と典礼・礼拝における神体験があります。
教会の肢体の分裂を招いた思惟・思考様式の限界を認め、キリストの一つの体である教会が、一つの家族として一致していなければ、福音を裏切っている「うそつき集団」だということになります、よね。
さらに他宗教「イスラム教」、「仏教」からも、何を我々は学ぶよう促されているのでしょうか。同じ釜の飯を食べるもの同士(旧来の思惟と枠組みでなされる、キリスト者の会議)だけでの仲間内での議論では、視野がせまくなり、あまり未来に希望を持てないのではないでしょうか。
[これからの方向]
これら三者の違いや高望みや意見などを偉そうに論じることは(私の傲慢になるので)脇において、聖書に照らされて、「正直に生身の自己を凝視し」、自己の生活を恵み(神の助け)によって浄化され、神と一層親しむ道へ・・・。知性は高ぶりと分裂へ、かえって自己の罪深さの自覚は、謙虚さと神の憐れみの愛による再創造へ・・・。
ちなみに「イエスの御名を呼ぶ祈り」は東西三教会に共通してあり、さらにイスラム・仏教での「称名」に通じ、「称名」は人類共通の根源的な宗教的顕われであります。
「自己への凝視」(自分はどうなんだ)をすることを、伝統的にプロセケー(ギリシア語で、注意する、心の動きへの覚めた監視・内観)と言い、一文字加えたプロセウケーを「祈り」と言います。自己を省みることから「祈り」が自然にほとばしり、赦しと慈愛の神に出会います。その切り口として「内観」があるのです。
[メタノイヤ・アイノタメ]
キリスト教三者自身を始め、他宗教も、ものによって、他者に責任があったとしても、自分の側の懺悔が必要ではないでしょうか。21世紀にはいる前に、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様の、教会が犯してきた罪の懺悔を公になさった記憶もまだ新鮮であります。
子供の頃、晩の祈りで「良心の究明」というのがありましたが、これも公会議やナイスによって「内向き」であるとして断罪され、葬り去られたのでしょうか。個人の内面の罪はなくなってしまったのでしょうか。内向き事を申しましてすみません。私ごとき「破戒坊主
がこういうのもはばかりますが、福音書ではどう教えているのでしょうか。
以前も書きましたが、ひとつの呪文のような言葉を、混乱して悩んでいる人に、勧めます。「シューブ・ダンシャリ・メタノイア」と。「シューブ」はヘブライ語で様々な意味がありますが、元に戻る・離れる・回心するなど。「ダンシャリ」は、流行している言葉で、生活を調える際の一つの術、「断・捨・離」のこと。「メタノイア」はギリシア語で「悔い改め・立ち返り・元に戻る」の意味です。「悔い改め」と聴くと、何か、重くて暗い印象を持ちますが、ある見出しに、面白いことが書かれていました。すなわち、「メタノイア」を逆読みすると「アイノタメ」となる、と。
愛して下さっているお方のため、私も愛でお応えする。そういう場合、弱さをもっていても嬉々として快活に、愛する人を喜ばせるために颯爽と進み、生活態度を変えるのを苦としない・・・。愛が内在しているから・・・。そういう「アイノタメ」を動機として、来るべき時に備える・・・これが、「メタノイア」であり、再臨の主を迎える心掛けでもあります、ね。
個人だけではなく、歴史の終末に向かう今日、すべてのキリスト者、すべての宗教者が「アイノタメ」、「メタノイア」出来ますように!
(息吹53号より)
2015年 宗教と霊性
T ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、・・・これらは三大宗教(一神教)と呼ばれている。ところが今日、「宗教」という言葉は、敬遠されている。自己の宗教的信念に基づき、排他的で、「他者」との争いのもとと思われているからである。宗教的(時には福音的)衣装をかぶりつつ、我執(醜)の見え隠れするのを、庶民(特に日本人に)は観ている。
昔から様々な賢人は、「宗教」と「霊性」を一応区別している。「霊性」は英語のスピリチュアリティの訳である。(鈴木大拙師以来そう訳されてきている)流布されている諸観念の影響と無知により、あたかも研修・修行により、「霊」だけが「脳化」「高次な精神化」していき、ひいては、指導者(グル)に盲従し、オカルト的、精神運動的セクトにいたることもある。しかし、人間の「生全体」が、「より究極な目的」に向かって、生き方が変えられていく(受動)、死に至るまで継続するいのちの姿、と把握する。
ギリシア教父たちは、ビオス(生)と表現し、「生き方全体」を通して「究極目的」に向かおうとすることを、伝える。決して体・霊・魂の三分別される「霊」ではなく、人間の生(ビオス)全体が、獣的なものではなく、人間の尊厳を輝かす方向へあゆむ道を教える。故高橋正行神父は「魂の復活」への道行きであると熱っぽく語り、故田中輝義神父は「霊生」と表現し、人間の「生老病死」の全体とかかわり、内面降下の過程は「内なる過ぎ越し秘儀」を渡っていくことである、と教えた。また、故井上洋治神父は巷でよく使われている「スピリチュアリティ」に「?」を置き、生涯なされる「求道性」と表現され、東洋的(仏教的)感性からのよみ直しを大事にされた。
U 私達も、ギリシア教父の、そして、東洋的受け止めからの「霊性」の内実を、読み直したい。
こうした機運は、急に始まったことではなくて、50年前の第二バチカン公会議以降、じわじわと進んできている現象である。東方教会の霊的樹液から学びなおせ、他宗教の内に働く創造主の反映を見出せ、などとの宣言だ。
さらに、公会議の10年後、1975年(40年前)、教皇パウロ6世が、『福音宣教』という文書をお出しになられた。これは教会の宣教についての従来の発想を逆転するよう促した。地理(空間)的拡大の方向ではなくて、民族・文化、それらの深層にくだり、そこで勢力を這っている暗闇の諸価値観を、キリストの光で照らし出し、180度転回させる・・・との宣教姿勢の提示であった。
要するに、宣教とは、表層意識領域から「深層意識領域」にまで降り、キリストの黄泉くだり・死とよみがえりの神秘の各自の転回・展開を促し、神の受肉の恵みの深さを観想させる。
今日の現象世界を見ると、まさに、予言的な発言だった。それに応えるべく「霊生(霊性)」の探求が、一部の人たちによって、なされてきた数十年である。
心の深層への沈下は、キリストの古聖所(黄泉)くだり(東方正教会では復活の働きの神秘)の秘儀にあやかるもので、その領域は人間存在の深淵を支配する暗闇の勢力と神の光の力が交差する場所、への降下である。
あわてず、じっくりと、神の前に坐して、沈黙し、心身を聖霊によって再統合(再創造)してもらって、その神の不思議な業を知ったことを携えて、世に遣わされよ!そのためには、まず、キリスト者自身、各自は、「自分はどうであるか」を啓示の光に照らされて「正直な自己凝視」と、そこ(底)からの祈り(叫び)と、神の恵みによる霊的再生へという信仰の初歩に戻ることではないか、と考える。これが聖書の伝える「新生」であり、それをたずさえての「福音宣教」だと、教えられた。これは、決して個人的・内向き信心だと排除されるのではなく、宇宙的広がりをもち、世と連帯した生き方であり、聖書から教えられることである。
昨年、『大いなる沈黙』という、フランス・シャルトルーズ修道院での修道士達の記録映画をみた。世から離れているが、逆説的に、世と真に深くつながっている。けっして、個人的な営みではなく、自己の弱さを通して悩み苦しむ「世」との真実な連帯があり、徹底して、「霊生」を生きる「求道者」の姿を見た。
V 話題をもとに戻し、神礼拝をする「宗教」を、外観的に、教義・組織・祭儀・諸活動から見るときに、そこには当然、民族・文化・時代的制約・言語・・・さまざまな人間の表層次元のものが複雑に絡まってくる。そうしたことが「他」を区別・分別・差別し、排斥し、争い、宗教の本来から離れた悲しい「世俗」的な諸現象となって顕われる。もうすこし、深く考えてみよう。
では宗教の「深層領域」とは・・・。それこそ、「霊生」の領域である。その道を往く人々は、しっかりと「求道」の「生」を、生涯にわたり自らの「生き方全体」をとおして顕してゆくことであろう。「世」と罪(〜べきの論理)において連帯している「自己の悲惨さ(おぞましさ)」を「凝視し」(聖書ではネープシス、あるいはプロセケーとギリシア語でのべられており、教父たちの重要な鍵言葉、要するに「内観 自己の心の動きを見よ」である)、しかし、「善き神」の憐れみによる救済の働きに与り「感謝・賛美」するに至る。聖霊に促されて「永遠・彼岸」に伸展した生き方の「後姿」に、「霊生」が顕われてくる。そこには、神の「愛」と、「平和」と「美しさ」などの神の「善さ」が感じられる。
また、「宣伝・広報」がなくても、超・意識的な響きを聴いた魂達が、自然に「集められてくる」・・・そういう顕われを「霊生」(神秘)と言えばいいだろうか。つかい古された別の表現で言うならば「to do(なにかをする)」以上に「to be(神の前で自分は何者か)」の問い掛けから顕われてくる現象である。
すると「霊生」は、各宗教にもある。それにはあらゆる余計なものを剥ぎ取り、一人ひとりの苦難を通して、清めの過程が踏まれて、赤子の如く丸裸を楽しむので、真理の「道」を共にする人々同士では共感共鳴が生じる。宗派をも超える。争いはない。ハグし合い、握手し合うのだろう。創造のはじめのころ(エデンの園)の空気を吸う。
そういう境地から、はなはだ遠い自己を認めて、内観道を自らの誠実さとして歩み始めた。今も、ひたすら、イエスの御名を呼び続けて、「憐れんでください」と祈る日々である。
(息吹53号2015年新春)
「おっとどっこい」と「あらえっさっさ」
T 様々なことを、知性的に探求し、模索しても、決して魂の落ち着きを覚え平和を味わうところに至っていない自分がある。神は「善きこと・幸い」を与えることを約束しているが、神は我々の知性や感覚を超越しているので、それらを超えた領域での「善きこと・幸い」へ目を向け直す、ないしは、仕切りなおしをせねばならない。ハッピィ(至福・至善)の源である神は、知性の領域ではなくて、それらを超えておられ、心の領域、感じる領域において、恵によって、かろうじて姿を現す。なぜなら神は小さな我々の「知」を超えておられ、「愛」であるから。また、難しいことを書きはじめている。おっとどっこい! 考えるのはなくて、愛である神の中に逃げよう、しがみつこう。 幼子のように! 小鳥達のように! 野の花のように!
U 話は変わるが、パウロは当時の社会で、奴隷制とか治世者の腐敗とか享楽的世相とか、今から思うとけしからぬ社会の枠組みや、終末的様相の中で、それらに取り囲まれてありつつも、権威には従い、主・イエスに倣って生きなさい、喜び賛美して生きなさい、と教えている。世の常識(合理)と違う教えで生きること、それが、新しく(霊によって)生まれた人の選択肢であった。もしクリスチャンや教会が、社会学的基準や効率や合理的納得で動いているとするなら、おっとどっこい!神のことば(御子)と神の霊へ・・・。ここは様々な見解の相違があり微妙なところがあるが、前号で、宗教組織や教えが排他的になる危険を指摘したが・・・おっとどっこい!それらとは別に、イエスの説く教えは、愛であり、へりくだることであり、負けることであり・・・世にありつつ、世を超えるところにある、とのイエスの教えに逃げ込むのだ。
大きな苦難の後、立ち直れない人間の傍らで、野の花はまた美しく咲きいでている。食べ物を探して小鳥達は「ちゅんちゅん」とさえずっている。どんな難しさにあっても輝くいのちの美しさと感動がある。そういう「生かすいのちの主」である御父から、いのちの神秘を頂いていることを見よ!とイエスは教える。
V かく、相変わらず堅いことを言う自分に嫌気をさすので、ほっとしたいので、次の話題へ。「イエスの称名」の道を選んで(選ばされて)、その教えを学び(読書と実践)ながら、大昔の先輩達の指導に耳を傾ける。生きていること、息をしていること、祈って(称名して)いること、これらが一つとなりなさい、そしてイエスと一つになりなさい、と。日本の法然・親鸞・一遍、そして「妙好人」と呼ばれる念仏者たちを想う。阿弥陀の称名道を選択し(法然)、それを知性的に深めて内面で阿弥陀の御慈悲との合一(親鸞)へ、その実践が遊行(ゆぎょう)と踊りの形にも顕われ、六文字の念仏札を配る(一遍)。自分にはおよばないが、一遍流の生き方にあこがれる。選択(意志)を超え、知性の探求(知性)を超え、神の中で「遊ぶ」もののように。「あら、えっさっさ」と踊りながら。子鳥や野の花のように、幼児か気のふれたものの如く戯れ、「ワッハッハ」と、喜ぶ。世にありつつも、世を越えて、いち早く、天翔(あまがけ)る。
「おっとどっこい」と「あら、えっさっさ」。外に出す勇気はないけれど、せめて、心の中で、そうありたい。サムエル記(下6章)の、ダビデ王の踊り舞う場面を思い出す。神の言葉の納められた箱がもどってくるとき、王の衣装の代わりに祭司の服を着けて彼は喜び踊った。妻のミルカから裸で踊る王だと軽蔑されもしたが、ダビデは「私は主の御前で踊ったのだ」と応える。我々には天上の歓喜の時まで保留なのだろう。
(息吹54号より)
いつくしみ・あわれみ
T つい、生業上、「神」という言葉を多発してしまう。けれど、どういう中身の「神」なのか。聴く側から、どう受けとめられているのか。ここに、非キリスト教的風土においては、特に、限界を覚える。通用しない説明の故か、信仰は無くなったわけではないけれど、教会離れも深刻である。要するに今日的な意味での、全人類的な「普遍的説明」に欠けていたのではないだろうか。「言葉」の持つ限界だろうけれど。
U それで、試しに、「?」のお方と表現してみた。(クエッションマークのお方、ハテナのお方)とはいえ、相手に、何らかの言辞で、伝えなければならないし。言えば言うほど、真実(まこと)から遠ざかることもあるし。「?」のお方。ハテナのお方。知性的概念だけでは、わかりづらいお方。「神」のことだけではなく、他人のことも世の出来事についても、「?」であるのが本当なのであるが。
そんな知性的な行き詰まりを破るように、イエス様は単純に「幼子の心」で「アッバ、お父さん」とよべばいい、と教えてくださっている。それには聖霊の助けがいるが。「?」の神は「いつくしみ、まこと、あわれみ」(出エジプト34の6)と教えられている。哲学者の神ではない。これは「?」のお方との親しい親子関係・体験的交わりへの拓きであった。知的に思索された形而上学的、学問的神学の領域ではなくて、救われた者たちの体験とその意味内容の顕われ、信仰の中身なのである。対話を通してわかっていく、愛における交わりの道なのである。
V この12月8日から全世界で「いつくしみの特別聖年」が始まる。「神」は「お父さん」「アッバ」(幼児が信頼と安心を持って語る「パパ」に似ている)であり・・・。子供には変わることのない愛を持ち、約束を必ず守り、憐れみの故に必ず赦してくれ・・・そういう「親心」の方。この神の親を何とか伝えようと、詩篇でも繰り返し用いられている「いつくしみ・まこと・あわれみ」、「怒るに遅く、忍耐強く」と。預言者達も「母の胎内で騒ぐ胎児を痛みつつも喜ぶ母親の愛」、福音書では「放蕩息子の帰りを喜ぶ慈父」。これが聖書の一貫した教え。ややもするとある特定の知性的概念・価値観に傾斜しがちな正義、を超える神の憐れみの愛(神の義)。いまこそ、最後の神頼みとして、教えられている神の「慈しみと憐れみ」、この切り札への信仰に戻ろう。
特別聖年を呼びかけたフランシスコ教皇様は大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみの御顔』を出されました。それに先立つ、35年前の1980年に、聖ヨハネ・パウロ2世教皇様は『いつくしみ深い神』をお出しになっていた。緊急の時に入っている、と書かれている。
W 脳ミソ・知性のおしゃべりを超えていくとは。魂を沈黙させ、幼子のように、創造主・救い主の懐の中にもどろう。(詩篇131参照) 沈黙していても、知性(思念や想像)と情念(感情や欲望・欲求)の仕業で心の内部は騒音だらけの凡夫の身。だから、そのつど、母の懐に安らぐ「幼子のように」と繰り返す。聖者たちを通してもその秘訣が教えられている。
神(親様)は人間の心と体に、神の像を刻んだのだから(創世記1の27)、その「?」のお方の「霊(息吹・気 創世記2の7)」において、神と親子の関係を体験するように。こうして、私は私(小さい我)から出て、「?」のお方の大海原に浸り、神秘である神のこころを感じることができる。汚れた霊が洗われ(詩篇51)、創造主の霊を受け直す時まで、「?」の神は忍耐して待っておられる。
X かくして、キリスト者の内観瞑想は、赤子がすやすや眠るが如くの穏やかな呼吸へ、さらに神の呼吸・息(聖霊)と一つとなり、神の子・イエスに似たものと変えられていく一つの道となるだろう。既成の宗教が、それぞれもう少し、こういう道に進化すれば、世界はだいぶ平和になるだろう。
考えるのはなくて、いつくしみ(慈愛)の神の中に帰依しよう、しがみつこう、委ねよう。幼子のように! 小鳥達のように! ・・・。おっとどっこい! 知性の騒ぎから逃げて、神のことば(御子)の中に。ここが大事。そして、神ご自身が先に人間の中に静かに隠れておられる、ことに気づくまで。イエスの説く教えは、愛であり、へりくだることであり、負けることである。世にありつつ、世を超えるところにある、とのイエスの教えに逃げ込むのだ。
55号 2015年12月より
吸う息と吐く息
T 生きるということは、息を吸って吐いて、という円環的な呼吸運動をしているということである。だから「イキル」とよばれる。生物が「生きる」ということは、呼吸をしているということである。ただし、人間だけが自己の呼吸をコントロールすることが出来る。病気などで呼吸が難しくなると酸素吸入器などのお世話にもなる。体は大気中の酸素のエネルギーによって生かされている。
U 人間だけが自律的呼吸が出来て、呼吸をコントロールできると、言った。浅い呼吸が続くと心身の不調を起こす。深い呼吸は心身を落ち着かせる。仏教では呼吸を調えることを「調息」という。吐く息を細く長く下っ腹にまでおろしていく方法である。東方教会においても祈りにおける呼吸の重要性が説かれている。祈りが頭の中で、さ迷い散乱しがちな意識状態では祈りにならないので、取り合えず心を集中させ深めるために、教父・師父達は呼吸の重要さを指摘する。
V 祈りの中だけではない、信仰に生きる(復活に生きる)というのも、同じことが言える。御言葉であるイエス(アッバ)を頂き(吸う息)、イエス(アッバ)の中に自分をお返ししていく(吐く息)いき、永遠のいのちのなかで生かせてもらうことである。体の中に霊によって立ち上がった(復活)イエスを巡らせ、宿ってもらう(住んでいただく)のである。
人は他の動物と違い、神のルアッハ(プネウマ・息・霊)を吹き込まれて「生きたもの」(神の似姿)となったのだから、この神の息(霊・風)を吸っていなければ、生きていても(人間として)死んでいることになる。イエスの御名を呼びつつ、深い呼吸に馴染んでくると、イエスの霊に生きる(聖霊によって生きる)ということが起こってくる。霊生(霊性)と呼ばれる所以である。霊性とは、知性と意志によってこの円環運動的な呼吸(人間固有の呼吸)のうちで、創造主の招きに応答させられていくことである。
W 古来より、そのように伝えられてきた。ヨハネ・クリゾストモス(407年帰天)もいう。「(吸いつつ)主を頂き、(吐きつつ)主に飲み込まれて、主とひとつになる」と。これを絶えざる祈りと称した。お願いする祈りも大事であるが、恵みを適えてくださるお方である主(御父、イエス)と息(霊)においてひとつなることが先決である、ということだ。そうすると生きていて生きる。死んでも生きる。洗礼によって、そういう生き方に招かれた人をキリスト教徒と呼ばれた。そういう神の息(霊)による生き方を復活信仰という。
三位一体のエリザベトというカルメル会の修道女(1906年帰天)が、まもなく列聖される。26歳の短い生涯を一目散に走り去った彼女の標語は「神はわたしのうちに、わたしは神のうちに」であったという。彼女も、上に述べたイエスの息とわたしの息がひとつになって、イエスがわがうちに、私がイエスのうちに、となることをモットーとしていたそうだ。自我からの解放などは困難な仕事だが、イエスとの愛によって一枚になっていくのなら、出来そうな気がするから不思議だ。
X 具体的にどうすればいいのか。我々は、絶えずいろいろの思い・考えや様々な感情に動かされて生きているわけだが、それは、(大乗起信論や現代の深層心理学も指摘する如く)「わたし・自分」という自我意識の支配下でなされているものなので、「アレコレ考えている」と気づくと、そのつど軌道修正し、気持ちを「イエス・アッバ」に向け(吸う息)、主イエスを内面意識と体内に迎え入れ、気持ちをそのお方に委ねていく(重ねていく)練習をすることから始まる。何度もここでも書いてきたが、一日のうちに度々「おっと、どっこい」と、主イエスに気持ちを向けることなのだ。この呼吸の祈りは、結果として、自我からの解放、復活のいのちへと運んでくれる。
Y あまりにも知性先行・目に見える活動が中心になり、心の潤いや安堵感を味わえない、との病者や高齢者や弱者の陰口をよく聴く。ようするに自我中心文化の枠のもとで形成された社会の仕組み(教会信仰生活も)、研修やスローガンに陥っているのだろう。沈黙に不安を覚えるのだろうか。隠れてご覧になっており沈黙している神を信じていないのだろうか。この「いつくしみの大聖年」に一念発起して、ほかならぬ自らの霊魂に「主を吸い、主に委ねて」、神のいつくしみ・あわれみ・まことをつくづく想起し、主と一枚になる望みを持つようにでもなれば幸い。これは恵みではあるが。
Z 内観と呼吸法は裏表である。深い呼吸を続けていると、自己のまだ見知らなかった闇の面が照らされる(照らしの恵み)。照らされては祈り、願っては神によって変えられていく道(清め・変容)の両翼である。そして、呼吸の祈りにより、神ご自身の想いと一枚になるように運んでくださる。そういうわけで、単なる内観でもなく内観療法でもなく、「内観瞑想」と呼んでいる。これは本来の人間の、心と体の自然のリズムなのである。内観しない信仰やその活動は片手落ちであり、決して霊的満足を得ることが出来ないだろう。
(2016年4月 息吹56号)
まことを求めて
T いろんな本を読む。そして、考えたり想像したり想ったりするも、脳味噌の中では終始一貫せず、チグハグなまま、断片的なまま、分裂したまま。表層の知識に終わっているのだろう。更なる問いかけをもせずに、その場しのぎで知った振りをして、繕ったり、適当に嘘をついたり、本当の自分のことは隠し通す。それでいのちを終えてしまいそうな自分がある。「これでいいのか!」
それだけではない。感情面でも好き嫌いがあり、それに従っての判断が来る。それに焦りや不安や罪悪感もあり、様々な我欲も一杯である。それらの気分を表に出すとまずいので、仮面(ペルソナ)を被る。何事も穏やかに、といさめる先輩や、人生とはそういうものなのだ、と妙に諦めさせる。そういういわゆる、普通の世の生き方を続けているうちに、知や情とは別の源泉(霊)からの深いため息が出てくる。が、それを打ち消すかのごとく、またまた何かに逃亡(息抜き)する。「神は、どう望んでおられるか」などはそっちのけ。
U こうした問題意識を宗教で満たそうとするが、教説や組織という様々な秩序が、またまた疲れさせる。しかし、こうした人間の問題を徹底的に探求した行者達が古今東西に沢山いた。キリスト教の場合も、2000年来、師父とか教父と呼ばれる人たちが、騒がしいおしゃべりの氾濫するアゴラ(広場・市場・祭り)を離れ、静かなところに退いて、徹底的に「本当のこと」「まことのこと」に向き合った。「内なる人」(Uコリ4の16 エフェゾ3の16)への道行きである。
彼らは、決して個人的見解(自説)に終わるのではなく、数世代にも渡り、数百年をもかけて、「まこと」(ヘブライ語でエメット、ギリシア語でアーミン)を追求し、味わうことを人生の課題とした。仏教や深層心理学の知恵に優るともおとらぬ経験智の世界である。神と人とを繋ぐ宗教的霊的智である。
V 今回の巻頭言で、言いたいのは、いのちに付き纏う、「想念(知)と情念(感情など)」のこと。そして、それらを超脱させてくれる「称名」における合掌心のこと。「まことを求めて」である。
内観を深めていくうちに、人間の心の深部には「思い・想念」と「感情・情念」の密接な絡まりがあるという事実に突き当たるものだ。人間の「業」「病み・闇」の深さを味わう時だ。情念に下支えられた知性は、うまく我々を欺くもので、知らないままに「嘘」「虚実」「虚無」の罠にかかってしまい、人間をまことから遠ざけてしまう。自己欺瞞というやつだ。あるいは「自己を偶像化」することで一応の納得をさせる。しかし、「知」も「情」をも超えた「まこと・真実・本当のこと」への渇望を消すことは出来ず、内観とはこんな程度のもの(自分のしている表層の内観)ではないとの感じもする。
その感じ・感覚は、真実への憧れから出て来る普遍的な合掌心(畏敬のこころ)と表現すればいいかも知れない。自力の内観と他力の内観の分かれ目であるが、この合掌心から内観者は「称名」への道に案内される。こうして真実の内観は、称名と密接な関りがあり、パウロの言う「内なる人」への道行きである、ということを指摘したいのである。深層でのこの畏敬の合掌心も、実は、アチラ側から吹いてくる風(霊)でもあるのだが。
W この道行きは、砂漠の隠者達による「イエスの御名の祈り」に模範を見出すことが出来る。イエスという称名を通した神の子・イエスへの絶対帰命への道行きである。今日に至るまで受け継がれてきている。彼らは、知と情の巧妙に張られた罠は、称名と内観との協働する聖霊によって見破られ、浄化されていくことを説く。ここにキリスト教的な覚醒(ネープシスという独特の気づき・悟り)の世界が拡がる。私も「キリスト者の内観瞑想」をそのように受けとめている。
これは理屈ではなく、内面・霊的体験への誘いである。ちなみに「霊」「呼吸」「息」「気」などの一連の日本語は、ヘブライ語(ルーアッハ)でも同じように相互に意味を含蓄しあっている。そのわけで、私の内観会場では、必ず「呼吸法」「イエスの祈り」をも双修している。
X 「主の名」。「復活した主イエス(イェシュア)」とは、「アドナイ(主)」と表現される生かすいのちの主である。我々が出てきたところ・還っていくところであるが、そのかたが人となり我々のそばにおり続けるという不可思議な「名」(出来事・わざ)である。その気配に打たれると、通常の知識や生き方を変えざるを得ないなにかが起こる。未だ知らぬそのお方への畏敬の心が湧き出るのであるが、そのお方と一つになりたいという渇望も強い。まずはイエスの名により洗われ、清められ、引き寄せられる。人生の目標も調えられる。そして、イエスに似たものへと招かれる。
この称名的祈りは、知も情も、時間も空間も、超えさせる現実なのである。通常の底が抜け、箍(たが)のはずれて現れてくる、復活のいのち(からだ)への道であろうか。以上、舌足らずで誤解の招く表現も多いが。学問の無いものの戯言として聞き流してもらえれば幸いである。
(2016年晩秋号 息吹57号より)
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