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死生学(Thanathology)について(日下喬史)
(2010年4月に唐崎・ノートルダム修道院・祈りの家において、「内観奉仕者研修者」の席で、日下喬史(医学)博士が「死生学」という題で発表した際に提出してくださったメモをご紹介します。先生は十年以上前から内観生活を行い、その後も高齢にも拘らずキリスト者の内観瞑想にご協力下さっています。)
§1. 死生学とは:
死生学とは人の命の尊厳について、医療と人文・社会系の学問との接点を調べようとする学問である。死生学という言葉が日本で使われる様になったのは、やっと1970年頃からで、未だ新しい学問である。その内容は人の命に密接な関係がある故、もっと早くから研究すべきであったのに、日本人は何故か最近まで、"死"という現実を不吉なものとして成る可く遠ざけ、出来るだけそれに触れぬ傾向があったために、2つの学問の導入が遅れたものと思われる。
§2. 死生学への関心:
「命の大切さはどうすれば子供に伝えられるのか?」 子供のみでなく現代では中高年の日本人でも、命の尊厳への感受性が弱くなっていると思われる。 「私達は何のために此の世に生まれて来たのか?」、これに答えるためには、生の反対の死を充分に理解せぬといけない。「生の究極の到達点である死の日まで自分に与えられた時間をどう生きようか?」と考えて始めて命の大切さが判る。これが死生学の最終目標であり、決して不吉な学問ではない。
§3. 従来の医療と今後の医療:
生命倫理(Bioethics)という考え方は1960〜1970年代にアメリカで起こった。それ迄の医療は単なる延命のための医療であり、患者の生活の質的レベル(Quality
of Life)はどうかについての関心は低かった。確かに感染症や栄養不良が原因となる疾患と、さらに時代が下って生活習慣病に属する高血圧や糖尿秒等は戦後の医療のレベルアップなどにより、次第に減りつつある。しかし、現代医学でも根治出来ぬ、いわゆる不治の病も未だ数多く残されている。これらの患者に対して、徒らに経口栄養等で死期を遅らす可きか否かについて、本人は元より家族の希望もマチマチであり、其処に安楽死、尊厳死等の問題も絡んで来る。何れの場合でも、従来の医療では患者の身体の死についての配慮のみであり、患者が如何に"死"を安らかな心で受け入れられるかについての配慮は充分でなかった。それに対して、"死"をもう一度、患者と家族および医療従事者がきちんと向き合える課題として取り組むことが大切なのではなかろうか?
§4. 死生学と既存宗教との関係:
死生学が人の生と死に取りくむ学問である以上、既存の宗教との関係は充分に配慮せねばならない。死生学は特定の宗教的概念に余りとらわれずに、しかし充分に深味を持った死生への問いを言語化していこうという作業である。死と向き合っている各人が発する命への気付きの言葉には宗教的な次元のまなざしが含まれるのは当然である。こうした気付きをより普遍的な言葉に練り上げて、新しい死生の文化を築く可きではなかろうか。従って、死生学は何れの既存宗教の支配下に属する必要もなく、又これらと相反するものでもない。
§5. 「時間」とは:
現代の日本社会は死生観の空洞化という状況にある様である。すなわち、"死"の意味が良く見えないと同時に、生自体の意味も良く見えてないではなかろうか? 死生観と言うものの核心にあるのは、実は「時間」と言うものをどう理解するかというテーマではないかとも思われる。「時間の始まりとは?」、「我々の住むこの世界の始まりは何時?」、これらの古くて新しい疑問について、始めて答えようとしたのは、4〜5世紀にキリスト教神学の基礎を固めたアウグスチヌスである。彼は旧約聖書の創世記について、神が世界を創造された時に、時間そのものも生まれたと説いている。ずっと下って現代の宇宙観では、「宇宙の大きさは有限だが、始まりも終わりもない」という、むしろ仏教的な世界観に接近している様にも思われる。要するに、時間についての我々の理解は、4〜5世紀も今も余り変わっていないと言えるのではなかろうか。
§6. "死"とは無なのか?:
大部分の現代人が素朴に持っている生死の理解は、生=有、死=無である。これに対して死生学で説くのは、生=「相対的な有」と「相対的な無」の入り混ざった世界(=時間のある世界)、 死=絶対的な無=絶対的な有と説く。 即ち、死は単なる無ではなく、有と無を超えた、時間をも超えた永遠と呼ぶべきものと説く。
§7. 真のターミナルケアとは?:
外国でのターミナルケアの実情については残念乍ら調査不足であるが、我が国で行われているターミナルケアには、延命医療の在り方とか、安楽死と尊厳死との関係などを話題にするのみで、もっと本質的な"死"そのものについての配慮が欠けているのではないかと思われる。 人の死はその知覚の人にとってケアーの一つの終わりであると同時に、一つの始まりでもある。 その人の人生を、死のこちら側で完結してもらうと共に、死後のあちら側の世界、大きな枠組みとしての自然乃至宇宙への旅立ちを願う心が必要ではなかろうか?
(「息吹40号」2010年夏号より)
内観・霊的・呼吸法
T 「〜について」と「〜を味わう」
1 今回、お招きいただき、「内観の霊性」について、お話しするよう李大云先生(韓国内観学会会長)から依頼されました。
「〜〜について」話すようにといわれると、いつも躊躇させられます。私は「〜〜を」体験するということを生業としているのですが・・・。つまり、学者ではなくて、実践家なのです。「about」と「with」の違いがあります。信仰や神「について(about)」を聞いても知識が増えるかもしれないが、多くの人は信仰が豊かになりたい、深まりたい、そういう欲求があり、なんらかを「経験したい(with)」と望んでいます。
それで、今日も、知識の情報を増やすことよりも、「経験する(体験する)」ことからはじめます。
2 まずは、鈴の音を聴くことから。目をつぶって聞いてください。・・・。もう一度、鳴らしますので、次は漫然と聴くのではなくて、「全身・是・耳也」という風に、全身の毛穴が全て耳であるかのように、注意して、聴いてください。・・・。いかがでしたか。静かな気分になりましたね。しつこいですが、もう一度。次は音が聴こえなくなるまで、余韻
をも味わってください。・・・。
いかがでしたか。落ち着きましたね。気持ちよかったでしょう。心の中に平安感が訪れているでしょう。皆さんは、そういう「体験」を、今しています。
なぜでしょか。それは「考える」ことではなくて、「聴く」という感覚の集中を行っていたからです。悩みや不安や焦りは「考え」からきます。「考え」は体に緊張感を生じさせます。「考え」から離れると「平安、ホッとした気持ち」になります。皆さんは、神を体験したいという欲求を持っています。神は平和です。聴くことの集中から神を(=with)覚え始めているのです。
3 次も同じように「息」をしてみましょう。呼吸です。吸う息と吐く息です。吐く息が大事です。細く長くゆっくりと息を出します。出来れば、鼻呼吸をしてみましょう。・・・。椅子にもたれないで、腰をシャンと立てて、足は床にしっかりつけて大地のエネルギーを足の裏で吸収するような気持ちで、姿勢を正してください。それでは、もう一度、鐘の合図ではじめてください。・・・。はい、ありがとうございました。
自分の呼吸を意識できましたか。呼吸はどこでしていましたか。胸(肺)でしたか、腹でしたか。深い呼吸が出来ましたか。も一度、鐘を鳴らしますので、ゆっくり、深く、穏やかな心で、下へ下へと気持ちをおろしながら、心の在り所を丹田(臍下10aほど)あたりに定めてください。意識を内面化し、丹田にまで心を下ろしていきます。・・・。
どうでしたか。先ほどよりも、もっと落ち着き、自分という存在の安定感を味わっているでしょう。なぜでしょうか。それは「考え事」から離れて、「呼吸」「息」「生き」だけに集中したからです。そして、意識を自分の内面におろすことにだけ集中していたからです。潜心したからです。「考え・思念」から自由になるとこんなに平安なのです。
4 大脳・小脳の奥の院といえる「脳幹」は、生命の基本的な働きを司る働きをします。ここが萎えると死んでしまいます。脳死です。ところが深い呼吸をすると、脳幹内のセラトニン神経系という落ち着きや平安感や免疫力を出させる神経系が活発になります。それをいま深い呼吸によって実際に体験したのです。
深い呼吸法を毎日続けることで、あなた方の生活は変わります。落ち着いたものとなります。他人や状況や環境に振り回されないようになります。そして、神が、頭の領域から腹の領域へと深まり、内在する神への体験と進みます。
U 造られた人間の姿
1 創世記の2章では、人間の創造についてこう記述しています。神は、ヒトの鼻の穴にご自分の息吹(ルアハ)を吹き込んだ、と。深く呼吸するということは、神の息吹を吸い込むことです。動物的に行動している姿から、「神の似姿」である本来の人間らしさへ戻っていくことなのです。「正気」に戻っていくことなのです。
「正気に戻る」とはルカ15章で描かれているように、放蕩息子が回心して父の元に帰っていくことです。それをするのが内観と呼吸法です。
2 プネウマというギリシア語は「風」「息吹」「霊」「呼吸」を意味します。「呼吸」を深くすることで、神の「息吹」を吸います。そうした結果、生き方が「霊的」になっていきます。ですから、「内観の霊性」とは、ただ、内観の三項目で調べることではありません。深い呼吸により神の息吹を吸うことによって、考えもクリアになって、新しく生まれ変わっていくものです。
内観と呼吸法をして心身に「神の息吹」を注入することで、私たちは「霊的」に育っていきます。「3分間の呼吸法」からはじめてください。深い呼吸を長い目にして、一回が仮に10秒位とすると、3分間で18回前後の呼吸となります。一日に何回も3分間呼吸をすれば、環境や他者に振り回されない、落ち着いた人生へと変容されていきます。とに角、今日から100日実践してください。気がつけば、変えられている自分を発見するでしょう。
3 これは、単なる落ち着くための呼吸法なのではありません。アベ・マリアの祈りの中に、「ご胎内の御子イエスも祝された」とありますね。マリア様は、お腹の中に神の子イエスがおられ、自分の中に現存しているイエスを味わっていた。その母マリアの味わいの中に入っていくのです。ですから、吐く息と共にマリアの心で、丹田にまで、心を下ろしていきます。そして、丹田には「いのちの主」である神の子イエスがおられるので、慈しみの心をもってそのイエスのところへ近づいていきます。この呼吸と共にする祈りは、マリアの心で内在するイエスを意識し、心を平和に、心を暖かにするものなのです。
ちなみに「丹田呼吸」の名人は「赤ちゃん」なのです。幼子は自然に腹式呼吸を行っています。そのように創造されているのです。ですから、幼子のようにならなければ・・・といったイエスの言葉を、こういう観点からも考えることができます。
(息吹41号 より2010年9月 韓国・仁川にあるカトリック会館での講話要旨)
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