2017年5月1日更新


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 当センターの内観は、内観原法で教える三項目の枠組みを切り口として、内観者の状況に合わせてステップを踏んでいきます。癒しの過程、人生全体の調えの過程、黙想・瞑想への調えの過程という風に三段階を考えています。これらは階段のように進むわけではなく、それらは重複し、絡み合いながら、人生の目的を深めていきます。
参加者は様々な動機をお持ちで内観なさいます。依存症や心の病気など。人間関係、夫婦関係、親子関係。人生の進路選択。キリスト教の文化内開花(インカルチュレイション)を模索して、信仰の深めや神との一致を求めて。まずは、入門として一週間の集中内観の体験をご案内します。
日本各地での会場は、「内観予定表」をご覧ください。

内観から内観瞑想へ

1 内観とは
内観とは、母親に対する自分はどういう態度で生きてきたかを、三項目の枠組みで、淡々と調べて、その後も父親など身近な人に対する自己の態度を調べる。洞窟のようにも感じられる「屏風」という遮断状況を作り出し、孤独と沈黙のうちに自分に向き合い、それを面接者に日に7.8度報告する。面接者は、内観になっているか、まだまだ、外観的であるかをチェックする。なぜなら、つい、他人のせいや状況・環境のせいにして生きるという現代の価値観の傾きに染まっているので、(面接者は)本当の意味で「自己」に向きあったかの見張り番でもある。

一週間の集中内観では、面接者のいるおかげで自分に向き合いやすいのだが、現実に戻ると、自分で自分に向き合う必要がある(日常内観)。自分の今日一日の「心の動きはどうであったか」を監視、見張りをする。現実生活の中に、そういう静止の時間を作り出してもらう。伝統的に「究明」や「意識の究明」といわれていた事柄の日本的反省法である。一人では自己欺瞞や弁解しがちではあるが。

2 生き方全体の反省
内観では両親に対してどうであったか、を調べるが、それにとどまらない。「内観」という精神的態度を育てる入門・第一歩に過ぎない。が、それでも、多くの人々の悩みや問題の解決、病気の癒し、主体的自主的生き方の育成などという効果がある。私の内観会場では、「嘘と盗み」「怒り」「従順」「金銭感覚」「飲酒」「異性関係(愛と性)」「三誓願」などの特別メニュウで調べることも少なくない。モーゼの十戒や仏道でいう不十善とかが、内観のスタートとしてある。

要は、自己に直面し、人間的な目標に従って生きるように促す。そして、恵みなしには、善い生き方すら出来ず無力な自己、分裂している自己に出会ってもらうのが目的である。宗教や信仰面においてすら、神や仏の名を借りて、実は、自己中心的に生きる場合もあるのだから、自分の持っている「信仰」が本物であるかを、より深層に降って見直してもらう場合もある。
外面的に宗教的勤めをつくろっている場合もある。しかし、内面はどうであるか、これこそ、イエスが福音で問い掛けた領域であり、天の御父は隠れたところをご覧になっているのを思い出さねばならない。「内なる感覚」を取り戻すことにより、その人の信仰は生きはじめ、内的闘いも始まり、祈りが本物になる。神との生きた関係が生じはじまる。

3 古代教会からの「道」としての内観
有名な砂漠の隠遁者である聖アントニウス(295〜373)の、有名なエピソートがある。修行に馴染んで行脚の途中、道端に、銀やある時には、黄金が落ちていた。誰が落としたか、人の気配がなく、また足跡も無い。おまけに誰も見ていない。あなたなるどうするか。誰も見ていないし、金・銀の宝物は高価であるし、あれば助かる。しかしアントニウスは、普段から自分の心の見張り(内観)が習性になっていたので、それこそ、サタン(自分の中にある悪い考え)が自分を試そうと、アレヤコレヤの試みを、今回もまた、攻撃をしている事を知っていたので、彼は、それらの幻想・妄想・幻影を退け、気に留めずに、旅をつづけた。(アレクサンドレイアのアタナシオスの『アントニオス伝』11・12番参照。)

人間の内面には、欲望がある。しかし欲望があるということも隠されてしまい、何とか理屈を見つけて、自分を欺くものである。人をうまく騙し、自分をも欺くことに、引っかかりやすい。しかし、神を騙すことは出来ない。こうして小さな不幸から始まり、やがて身の破滅で終る。

永遠のいのちをもとめて歩むには、一人一人の内心を知る訓練が必要である。求められるのは、正直さ、忍耐力、謙虚さ、あるものに満足する、勤勉さ。これらが自分の中でどうであるかの心を正直に見張ることだ。

いつの間にか、こういう教えが、カトリック教会から消えていっているように感じる。その結果「癒しの力」も失せた。そこに「神」を求める多くの人達の「教会離れ」の一因があるように感じる。これは自分に対する苦々しい反省文なのであるが。

4 内観道
「内向き」であるかどうかが問題なのではない。「社会と遊離」しているかどうかの問い掛けでもない。別のまなざしの問い掛け、つまり隠れた事をご覧になっている「神を畏れる心」があるかどうか。神は「よき事」をなす汝ではなくて、汝が「どのような心」でそれをしているかをご覧になる。その神の目を意識しているかどうか。これを内向きといえばそうだが、これをなくしたら使徒たちが伝えたキリスト教徒ではなくなる。
自分の中のキリストと御父を日々味わう努力、洗礼によって委ねられた「祈りの責任」(信徒の祭司職)を果たしているかどうか。荒波の中で苦しむ人たちと連帯して、自らの内にもある「世の闇」を悔い改める道を歩んでいるかどうか。福音を託された我々が、自分を顕す(自己顕示欲)のではなくてキリストをこそ顕しているかどうか。そういう問い掛けが、正直なところ必要なのではないだろうか。ここに「内観道」がある。このように他人に向かって言うが、自分の現状もはなはだ恥ずかしいものではあるが、もうそろそろ、より一層、目覚めてよい時にきているのではないだろうか。そのように照らしのと回心の恵みを願っている。(2011年4月「息吹 42号」より)


       
岡山・三徳園にて。大地に根をしっかり張り、上にたくさんの枝と葉を実らせる大樹のようになるには、内観によって自分自身を知ることからはじまります。 


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