10月10日から20日まで、ソウルに行脚しておりました。 内観の意識論について
私は心理学者ではありません。自分の関心事である哲学的人間論、意識論的な領域で話したいと思います。 私の指導面接している内観は、「内観療法」というよりも、むしろ「内観道」であると自覚しております。 私は自分のセンターの看板で示しているように「キリスト者のために内観」を指導しております。とはいえどなたが来てくださっても結構です。プロテスタントの牧師さんもこられます。仏教の信者さんも来られます。先日は18年間禅の修業を真剣に続けておられる臨済宗の雲水(僧侶)様がこられました。うれしかったです。 内観面接指導者である自分のことを「内観同行者(どうこうしゃ)」と呼び、そのように自覚しています。面接指導者というと、なんだか、自分が上にいるような錯覚をもってしまいますので。内観者が心の内なる旅、すなわち、内観者が心の内面深くに降下しますが、一緒に同行し案内します・・・そういう気持ちで「同行者」と呼んでいます。 2 [内観と意識論] 内観は、対人関係を調べることが出発点です。三項目の枠内で、自分の態度はどうであったかを調べます。これは他の先生たちが発表されているように、治療的効果もあります。しかし、単に人間関係を良くするための調べ方にとどまるのではありません。水平的なフラットな領域で調べるだけではありません。内観の際に、意識を内面深くに下らせるように進められています。 吉本先生は「大脳の新皮質から、間脳・脳幹あたりに届くような内観」をするように言っておられました。脳幹といえば、呼吸すること、人間の生死を決める箇所です。人間の死の判定は、この脳幹がストップすると死の判定がなされます。この脳幹を活発にさせるには、深い呼吸が効果的であるといわれています。落ちついた深い呼吸に慣れてくると脳幹にあるセラトニン神経系を活発にしてくれます。セラトニン神経系は、平安感、落ち着き、免疫力などを活発にさせます。深い呼吸は自律神経訓練法と関係しています。 意識を深かめることによって、表面的な現象、時には病理現象となって現れている現象、の根っこには、内観者の表現を借りるならば、様々な「しつこく・あるいは黒い岩盤のような・どろどろしたもの・どうしょうもないもの・・・」などが横たわっているのを発見します。 内観の狙いは、通常の意識(粗い意識・表層意識)の底(深層意識)に横たわっている「自己意識」が、実は我執に支配されている事を見抜くことにあります。 意識の層にはいろいろありますが、大乗起信論や唯識論から学ぶことができます。 通常の人の意識は、様々な影響によって意識は乱れ、もつれていたり、歪曲しており、文化や伝統や習癖により汚染されているのですが、そのことに気付いてゆくことが当面の内観です。そうした調えられていない状態にあっては、正しく瞑想はできません。より深い内面降りはできません。乱れている意識を整理してゆくことが内観・自己反省といえるでしょう。 禅の世界には、調身・調息・調心という表現がありますが、内観は心を調える、意識を整えることであるといえるでしょう。実際、禅の修行は、内観すれば上達するのが早いといわれています。 第二のキリスト道における内観黙想、第三の内観瞑想については、省略させていただきます。 ソウルでの日中韓国際内観シンポジウム カトリック出版社ヨゼフ・ホールにて ★ 6月唐崎内観同行中、韓国内観学会の朴会長と理事の洪博士が会場まで来られた。この10月にソウルで集中内観を指導し、引き続いて中日韓・内観国際シンポジウム(韓国内観学会主催)で挨拶をするように、との話を運んできた。この度、いよいよ一週間の本格的な集中内観をする、そして今後の主要メンバーとなる李大云氏が面接指導者としての訓練を受けはじめる、という。 ★ 「韓国での内観」については、すでに度々報告して来た。最初に彼等が宝塚で同行中の私のところへやってきたのは、2002年聖霊降臨の主日である。その後、真栄城先生のところで李大云氏、私のもとで李昇雨先生、そのほかミニ内観を鹿児島・溝辺やソウルで、すでに内観を経験した人が数名いた。 ★ 昨2005年、李大云氏は「内観と信仰と癒し」をケーマとした研究論文の作成に没頭し、無事、今年にミネソタの大学で博士号を習得した。2007年には、今の仕事をやめて内観に絞っていきたいという。刻々と準備がそろってきた。 ★ さあ、ソウルでの一週間の面接を引き受けたのはいいが、通訳予定の李昇雨さんは喉の手術を受けて体調がよくないし、どうなるものだろうかと案じていた。 ★ 今回、内観会場となったベネディクト修道院のポリカルポ金院長、ベネディクト金光修士からは、とてもお世話になった。両人とも内観に強い関心を示し、信徒の方々を集めて一日講話を準備してくださった。シンポジウムへも修道服姿で参加され、挨拶と祝福と歓迎の言葉を頂戴した。韓国教会内において、しずかに浸透してゆくことを願っている。 ★ 以上の一連の動きからつくづく感じるのは、自分は「聖霊に運ばれて」用いられている、ということだ。私は触媒のように、与えたい神様と熱心に求める韓国の人々との間に置かれた触媒(仲介)の薬品のようで、実りを残して、用が済めば消えてなくなる。ソウルを舞台としての、聖霊の働きに参与している充実感がする。 ★ 北朝鮮が核実験をし、ソウル市内では各国要人や情報電波が行き交う騒々しい頃であった。その後、札幌内観へと直行するも、プロ野球・北海道日本ハムの札幌ドームでの感動的な優勝の頃であった。外の世界の騒がしさの最中、屏風の中での内観者とともに、内面くだりの修行をさせて頂いたわけである。動中、静あり。合掌。
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