10月10日から20日まで、ソウルに行脚しておりました。
目的は、@本格的な集中内観の同行をすること A韓国内での内観面接者を養成すること  B内観について関心ある人々にメッセージすること C中日韓国際内観シンポジウムに参加すること、でありました。最後の日に、突然でしたが、シンポジウムで話すように依頼され、その準備で書いたメモを作成しました。それを基にし、後日、吟味し直し、書き改めたものです。

      内観の意識論について
                                     藤原 直達(心の庵 内観瞑想センター所長)


1 [内観道] 御紹介いただきました。藤原と申します。この17日までソウル・中区・ブンドゥにある聖ベネディクト修道院を会場として、集中内観の指導をしていました。終了した日に、李博士が、「突然ですが、国際シンポジウムのことで、日本からの講師が欠席することになり、何か話してください」と私に願いました。

私は心理学者ではありません。自分の関心事である哲学的人間論、意識論的な領域で話したいと思います。

私の指導面接している内観は、「内観療法」というよりも、むしろ「内観道」であると自覚しております。
「内観道」の過程は三段階あります。
第一段階は、いわゆる内観三項目での自己反省をします。心を調える。凸凹道を真っ直ぐにする。曲がっているところを矯正する。仏教では、こういう内観・懺悔を「事懺(じざん)」というそうです。
第二は、内観により清められた心で、あるいはまた内観的思考方法を使い、キリストの教えの理解をさらに深めます。理解は、英語でアンダースタンドといいますので、聖書を下から見るのです。心の下側に立って、すなわち、書かれている内容を心の深層から理解します。つまり、自分の人生の中に生じた出来事と、キリストの教えや神秘とのつながりを黙想するものです。人間存在の本来の事柄、生命・病・災害・死・救いなどの究極的な問題に触れますので、先ほどの仏教的表現をお借りしますと「理懺(りざん)」といいます。
第三は、もはや、頭でアレコレ考えることを離れて内在する神を味わう瞑想へと進む・・・そういう全体的な流れを持った内観であります。ただし東洋の「冥想」と、西洋の「瞑想」は、表す文字も違いますように、ニュアンスも変わっています。
この最後の段階では、十字架のヨハネ、アヴィラのテレサ、マイスター・エックハルト、14世紀イングランドの無名の著者による「不可知の雲」、現代ではトマス・マートンなどが案内本とされるでしょう。

私は自分のセンターの看板で示しているように「キリスト者のために内観」を指導しております。とはいえどなたが来てくださっても結構です。プロテスタントの牧師さんもこられます。仏教の信者さんも来られます。先日は18年間禅の修業を真剣に続けておられる臨済宗の雲水(僧侶)様がこられました。うれしかったです。
本も数冊書きました。小さな内観実践の冊子は、その時々の必要に応じて、英語・ハングル語・スペイン語で訳されました。

内観面接指導者である自分のことを「内観同行者(どうこうしゃ)」と呼び、そのように自覚しています。面接指導者というと、なんだか、自分が上にいるような錯覚をもってしまいますので。内観者が心の内なる旅、すなわち、内観者が心の内面深くに降下しますが、一緒に同行し案内します・・・そういう気持ちで「同行者」と呼んでいます。

2 [内観と意識論] 内観は、対人関係を調べることが出発点です。三項目の枠内で、自分の態度はどうであったかを調べます。これは他の先生たちが発表されているように、治療的効果もあります。しかし、単に人間関係を良くするための調べ方にとどまるのではありません。水平的なフラットな領域で調べるだけではありません。内観の際に、意識を内面深くに下らせるように進められています。

吉本先生は「大脳の新皮質から、間脳・脳幹あたりに届くような内観」をするように言っておられました。脳幹といえば、呼吸すること、人間の生死を決める箇所です。人間の死の判定は、この脳幹がストップすると死の判定がなされます。この脳幹を活発にさせるには、深い呼吸が効果的であるといわれています。落ちついた深い呼吸に慣れてくると脳幹にあるセラトニン神経系を活発にしてくれます。セラトニン神経系は、平安感、落ち着き、免疫力などを活発にさせます。深い呼吸は自律神経訓練法と関係しています。

意識を深かめることによって、表面的な現象、時には病理現象となって現れている現象、の根っこには、内観者の表現を借りるならば、様々な「しつこく・あるいは黒い岩盤のような・どろどろしたもの・どうしょうもないもの・・・」などが横たわっているのを発見します。

内観の狙いは、通常の意識(粗い意識・表層意識)の底(深層意識)に横たわっている「自己意識」が、実は我執に支配されている事を見抜くことにあります。

意識の層にはいろいろありますが、大乗起信論や唯識論から学ぶことができます。
通常の意識は、我執に染まった「意識」であること。通常の意識は、実は、「無明の闇」である、との気付きにいたることです。
吉本先生の言葉を借りるならば「ワシがワシがという我を捨てて」行くことであります。そうすることにより、心にかかっている煤が剥がれ落ちて、心は透明になり始めるのです。

通常の人の意識は、様々な影響によって意識は乱れ、もつれていたり、歪曲しており、文化や伝統や習癖により汚染されているのですが、そのことに気付いてゆくことが当面の内観です。そうした調えられていない状態にあっては、正しく瞑想はできません。より深い内面降りはできません。乱れている意識を整理してゆくことが内観・自己反省といえるでしょう。

禅の世界には、調身・調息・調心という表現がありますが、内観は心を調える、意識を整えることであるといえるでしょう。実際、禅の修行は、内観すれば上達するのが早いといわれています。

第二のキリスト道における内観黙想、第三の内観瞑想については、省略させていただきます。

ソウルでの日中韓国際内観シンポジウム カトリック出版社ヨゼフ・ホールにて
                               2006年10月20日

★ 6月唐崎内観同行中、韓国内観学会の朴会長と理事の洪博士が会場まで来られた。この10月にソウルで集中内観を指導し、引き続いて中日韓・内観国際シンポジウム(韓国内観学会主催)で挨拶をするように、との話を運んできた。この度、いよいよ一週間の本格的な集中内観をする、そして今後の主要メンバーとなる李大云氏が面接指導者としての訓練を受けはじめる、という。

★ 「韓国での内観」については、すでに度々報告して来た。最初に彼等が宝塚で同行中の私のところへやってきたのは、2002年聖霊降臨の主日である。その後、真栄城先生のところで李大云氏、私のもとで李昇雨先生、そのほかミニ内観を鹿児島・溝辺やソウルで、すでに内観を経験した人が数名いた。
 翌年、2003年5月には「韓国内観学会」がソウルで創立され、その第一回学会にはスピーチのために出かけていった。その際も、ベネディクト修道院で一泊内観を開いている。

★ 昨2005年、李大云氏は「内観と信仰と癒し」をケーマとした研究論文の作成に没頭し、無事、今年にミネソタの大学で博士号を習得した。2007年には、今の仕事をやめて内観に絞っていきたいという。刻々と準備がそろってきた。

★ さあ、ソウルでの一週間の面接を引き受けたのはいいが、通訳予定の李昇雨さんは喉の手術を受けて体調がよくないし、どうなるものだろうかと案じていた。
 その矢先、韓国から夏休暇で大阪に来ている婦人が宝塚・売布の内観に申し込んできた。すでに申し込みを締め切っていたが、妹で在日教会の牧師婦人が、姉のために通訳をしますから是非参加したいとのことで、引き受けることになった。なんとこの牧師婦人の朴会真さんは、通訳の専門、心のケアー領域でも経験深く、前から内観に関心を持っていたそうだ。叶ってもない人が現れたのだ。お陰で通訳つきの一週間の面接と面接者の養成が真剣に行うことが出来た。その後、ソウルとの連絡は彼女が引き受けてくれている。

★ 今回、内観会場となったベネディクト修道院のポリカルポ金院長、ベネディクト金光修士からは、とてもお世話になった。両人とも内観に強い関心を示し、信徒の方々を集めて一日講話を準備してくださった。シンポジウムへも修道服姿で参加され、挨拶と祝福と歓迎の言葉を頂戴した。韓国教会内において、しずかに浸透してゆくことを願っている。  

★ 以上の一連の動きからつくづく感じるのは、自分は「聖霊に運ばれて」用いられている、ということだ。私は触媒のように、与えたい神様と熱心に求める韓国の人々との間に置かれた触媒(仲介)の薬品のようで、実りを残して、用が済めば消えてなくなる。ソウルを舞台としての、聖霊の働きに参与している充実感がする。

★ 北朝鮮が核実験をし、ソウル市内では各国要人や情報電波が行き交う騒々しい頃であった。その後、札幌内観へと直行するも、プロ野球・北海道日本ハムの札幌ドームでの感動的な優勝の頃であった。外の世界の騒がしさの最中、屏風の中での内観者とともに、内面くだりの修行をさせて頂いたわけである。動中、静あり。合掌。

(「息吹」29号 2006年12月より)