エディット・シュタインと田中輝義神父

070707というゼロとセブンの並んだ2007年7月7日、七夕の夜、カルメル会士田中輝義神父は、74歳10ヶ月の生涯を終えた。長年、西宮トラピスチヌ修道院のチャプレンとして隠棲し、思索瞑想の隠れた生活を好んでいた。知る人も少ないので、ここに、一人の日本人カルメル会士を紹介しよう。
 
1 現象学とトマス哲学
 エディット・シュタインこと十字架のテレサ・ベネディクタ聖女は、若い頃フッサールの弟子として現象学を学ぶ。エディット・シュタインの著作に感化されてカルメル会入りした田中は、当然フッサールとエディットの手法から影響を受け、彼の思索の根底に現象学的思惟と聖女の「智」があったであろう。
彼は若き頃、上智大学でドイツ哲学を研究し、当然、フッサールやその弟子であるハイデッガー、マックス・シェラーなどを読んでいた。他方、病気静養中には、東洋哲学・唯識思想を深く思索瞑想しており、自らのものを考える際の主軸としていたが、やがて現象学創始者フッサールの愛した第一の助手であったエディットと原語本で出会う。

田中の中で、純粋意識に迫ろうとするフッサール流の哲学姿勢と、自らの遺伝子の中に刻まれている東洋的思惟の吟味、西欧と東洋の思惟とを内的統合する知的作業は、やがて彼のカルメル会士としての内面的な使命となっていく。彼は、それらの上にアミタ信仰とキリストの比類なき献愛(博士論文)を見ていた。

さて、フッサールの元を去った聖女エディットは、その後ドミニコ会系の学院で教鞭を取りながら、フッサール現象学を携えてトマス哲学へと進む。その成果は、トマスの「真理論」のドイツ語訳を行うことで示した。現象学は、真理探究にあたり、事物そのものへ帰れという標語のもとに、見えない彼方への問い掛けを中断する。なぜなら主観的知性は曇っためがねのレンズのように様々な偏見や歪曲に汚染されているものであるが、「事物をありのままに見る」純粋客観になろうとすることをもっぱらの哲学者の勤めと心得た。そのために、内面降下して意識の構造を正しく知り、偏見の網をくぐり純粋意識にいたろうとする。そういう哲学的関心において「神」を排除してかかる。しかし、聖女は先生のフッサールと違い、神を信じる人々という実際に生活する人々の「現象」のまえに、膝をかがめる。聖女の現象学的関心では、師フッサールよりも他者や外界との「かかわり」をより重要とする立場であった。そこに田中の言う「アーメン・合掌心」がエディットの心内に動いていたのであろう。彼女は、意識とその意識に働きかけたアチラからの恩恵としての智慧に目覚めた。彼女はカトリックという「現象」に触れることにより、自らが知らぬ間に合理主義的哲学に陥っていたことに気づく。また決していまだ純粋意識にいたっていない自己の意識を認めて、人間の真理探究の限界性を認め、徐々に彼女は超越的領域へと知性を開いていった。究極的な真理をもとめる彼女は、意識の表層また深層で働く上から内からの息吹に導かれつつ、聖テレサと聖トマスに導かれ自分の哲学の統合がなされていった。そうして、真理探究という思索から十字架のイエスの神秘瞑想へと熟成しつつ、彼女自身の信仰の実りへといたる。

こうしたエディットの「心の内なる旅」に、信仰者・田中も共感する点があったのであろう。

仏教とキリスト教の深遠な対話の道中に、人々は唯識思想というとてつもなく深い密林に迷う。しかし、唯識の真如という深淵の暗闇から「いのち・ひかり」がコチラ側へ噴出してくるもの(いのちの主からの噴射動力)を田中はみのがさなかった。そこに田中の貴重な論点があった。
仏教とキリスト教の対話という人類史上、もっとも困難で、あるいは最終的になるかもしれない精神的営みの前に、現象学者エディットは、神の子・イエス・キリストの光へと舵をむけさせてくれるだろう。対話者たちは、唯識論の密林深くに畏れ敬意をしめしつつ自らも内面降下し、フッサールの現象学やそれを越えたエディットの道筋により様々な呪縛から身軽になり真理の前に謙虚になるよう促されるだろう。そして彼等は、さらにそれらを再統合しようとする田中が瞑想した一つの視点に立ち寄る。仏教との対話を目指すには、こういう思索・瞑想の旅になるのだろうか。


2 「十字架の学」
 エディットのカルメル会修女としての十字架の霊性・神秘思想は現代性を帯びている。ほかの人でも、十字架の霊性を述べるが、聖女の場合、十字架の聖ヨハネの後継者として十字架の秘儀を彼女なりに深めている。十字架の使徒職会(グスマン神父、アミルダ夫人。三位一体会。)、十字架の聖パウロ(ご受難会創立者)、そのほかの聖者も皆キリストの受難と十字架上での死と深くつながって、そこから力を汲んでいる。彼女の場合、ヒットラーのユダヤ人迫害という嵐のさなかで、自己の実存とのつながりの中で、生まれた「十字架学」である。彼女の十字架の智は、美しいベールで隠された暗闇が強く支配し現代のきな臭い時代状況の中で、また正義と平和の守り手と意識する教会が神経質に政治を監視しているかのような時にあり、内的に十字架の秘儀を深めるべく緊急のテーマであろう。さらにマリア・ヨハネのようにカルワリオの丘にまでキリストに付随う者、選ばれたものの霊性の道であり、今日の信仰的実存と深く関連する。

ユダヤ人でありカトリックに改宗しカルメル会に入り、ナチスに虐殺されたことから、彼女の十字架の神学は、「ユダヤ教とキリスト教との対話」という地平を持っている。ユダヤ人キリストはユダヤ教の聖職者たちから殺された!司祭たちはいけにえの子羊を祭壇でほふるように、十字架の祭壇で主キリストをほふった。祭司の民であるユダヤ社会からいけにえとされたキリスト。しかし、神の御心の深さは、この世の深淵な闇に光った。キリストの死後2000年経た、20世紀のアドルフ・ヒットラーというカトリック信者からカトリック信者であるユダヤ人の多くが殺されるという歴史の皮肉。その「間」にいた聖女は選ばれたイスラエルの民の一人として、主キリストの十字架のいけにえとなるべくガス室の中(死域)へ消えてゆく。そのような彼女の信仰上の意識が明確であったうえでのアウシュビッツでの殉教だった。教会はそういう流れの中にいた彼女を列聖した。

十字架の瞑想は、彼女にとり、思弁的なものとしてよりも、ユダヤ人として迫害を受け、殺されてゆく予感のなかでの、生身の現実を浴びての、信仰の確信をささえるものであった。単なる黙想の材料ではなかった。主の受難と死の後を、おかれた現実とのかかわりのうちに、わが身においても、継続するためのものであった。

聖女の提起した「諸宗教との対話」のテーマは、彼女の出自であるユダヤ教とキリスト教の間のことであった。キリストの死の意味と自らの実践において彼女の霊性は開花した。
我々においては「キリスト教と仏教の対話」というテーマを深めることになる。そしてそこから、生身の十字架の神学を生み出すこととなるであろう。ちなみに田中はエディットと同じ修道名「十字架のベネディクト」を選んでいる。仏教と対話し続ける田中の最後は「十字架」の衣装も剥ぎ取り、「死域」という思索で、彼の「十字架」の神秘を生きた。

田中は「キリストの十字架上の死」の秘密に迫る。仏教では、「大死一番」を教え、自己に死ぬことを修証とする。我執に死んで無我に生きる。聖女から深く感化され、なお仏教との深い内的対話瞑想をおこなっていたカルメル会士田中輝義神父の瞑想の主題は、確かに「死域に越える」であった。徹底的に「有為の奥山を今日越えてゆくこと」であった。ただし、晩年の彼は、「キリストの死」を、「十字架上での」という限定からも自由になろうとしていた。現象としての「十字架上の死」の意味を深く思索瞑想し、そこからさらに「死」に渡されたイエスの全人類的地平での瞑想であった。そこに彼なりの日本人としての「諸宗教との対話」があった。そこで彼が考えていたのは、「死」はゼロ化であり、無化であり、自己譲渡であり、没我であり、透我であり、滅我であり・・・。「十字架」からはユダヤ宗教伝統の「あがない」思想へと向かうが、仏教との対話をめぐらす彼は、むしろ十字架上での「死」の内的意味を模索し、その中に己の実存を放り投げていた。全てを剥ぎ取られ、捨てられ、誰からも見守られずにたった一人で、「死域」へ入っていった。そこに「生ける神の顔の前に立ち続けた」壮烈な一人の預言者的なカルメル会士をみた。すごい人であったと感嘆する。

                 2007年8月24日 内観瞑想センター 藤原 直達(大阪教区司祭)
                                      西宮のカルメル女子修道院にて