U 復活祭の前、聖金曜日の典礼で十字架礼拝中に歌われる感動的な交唱がある。「民よ、わたしに答えよ。わたしはあなたに何をしたか、何をもってあなたを悲しませたか。わたしはエジプトの地からあなたを導き出したのに、あなたは救い主に十字架を負わせた。民よ、私に答えよ。わたしはあなたに何をしたか、何を持ってあなたを悲しませたか。(くりかえし)聖なる神よ。力ある神よ。不滅のいのち、聖なる神よ、わたしたちにあわれみを。わたしは四十年の荒野の日々、いつもあなたを伴い、マンナを降らせてあなたを養い、豊かな土地に導いたのに、あなたは救い主に十字架を負わせた。(くりかえし)聖なる神よ・・・わたしたちにあわれみを。わたしのなすべきことで、しなかったことがあろうか。わたしはあなたを美しいぶどう園に植えたのに、あなたは、わたしのために青い実しか結ばず、わたしの渇きをその酢でいやし、あなたは槍で救い主の脇腹を貫いた。(くりかえし)聖なる神よ・・・。以下略 罰せられて当然であるのに、いつくしみの神は罰を自ら背負い、民をゆるす。神の限りない親心にも拘わらず、自分達は背反を繰り返し、神はそれらを張消しにしてくださった。このいつくしみの体験を繰り返し続けた。イスラエルの民の信仰はここにあった。この歴史的経験を想い起こしつつ(祈りの準備、内観の入り口)、神の親心と人間側の馬鹿息子ぶりを正直に「想起」「記憶」する(内観の成果)。特別な教義的体系などはない。「していただいたこと」と、「どういうお返しをしてきたか」「迷惑をかけてきたか」を認識し、その事実の前で赦しと憐れみを願って「神の名を呼ぶ」こと(内観想起の実り)へと促される。これがかれらの祈りの中身・現象であった。 V 翻訳のことになるが、「想起・記憶・記念(ゼーケル)」は具体的に「名(シェム)を呼ぶ」ことと同一化される。神の慈しみの業を想い起こし、自己の罪深さを認め、そこから「主の名」を呼び、再び「いつくしみの業のなされることを願う」という流れにある。これが詩編に顕われている祈りの心情である。別の神秘的な祈りがあるわけではない。 現代の我々の思惟では、「神は○○である」と表現するとき、実体的な何者(偉大で超越的な存在者)かを想像するが、「神(『?』のお方)(前号の巻頭言)」は、現実で体験されたいつくしみの味わいなのである。それを記憶・想起・記念することが信仰意識の中身なのである。味わいの感覚だから、詩や俳句や賛歌・嘆歌によって表現されることが多い。「その日には、あなたたちは言うであろう。『主に感謝し、御名(ゼーケル)を呼べ。諸国の民に御業を示し 気高い御名を告げ知らせよ』」(イザヤ12の4)。「あなたの御名(ゼーケル)を呼び、たたえることは わたしたちの願いです」(イザヤ26の8)。主の名(シェム)を呼ぶ祈りの意味はここにある。この「ゼーケル」はイエスの祈りの際に、「神・イエスの想起」という概念で教父達に受け継がれていく。
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