「キリスト者のための内観瞑想」について
(ノートルダム清心女子大学「年報34号」(2012年3月)原稿準備より)
T 内観ということ
1 内面への促し
@ 司祭に叙されたのは、1973年であった。第二ヴァチカン公会議(1962〜1965)後の、変化の激しい時代の最中であった。私は、「福音の文化内開花」「インカルチュレイション」「他宗教との対話」などに関心を示していた。とりわけ、教皇パウロ六世の使徒的勧告『福音宣教』(1975)において示された、これからの福音宣教は地理的拡大の方向ではなくて、文化や民族の深層にくだり、そこにある価値観の暗闇をキリストの光で180度転換させる・・・という趣旨の言葉に出会ったときに、司祭として生きてゆく指針を感じた。
A 十年後(1983)、すでに教区に戻り司牧に携わっていた時、私は奈良県大和郡山市にある「内観研修所」を訪れて、所長の吉本威信(よしもといしん1916〜1988)師に内観の手ほどきを受けた。その体験は、私の信仰に大きな衝撃を与えた。それは、決して観念や概念による内面化ではなくて、生身の自己に向き合い、「自己の内を観る」という習性を養い、そこから感謝と報恩の生き方へと促す。それには生身の自己への「正直さ(素直さ)」が前提となっており、自己の未熟さ至らなさの前に「謙虚な」人間を育てる、そういう研修であった。これはイエスの福音の教えるところと構造的に同じである。すでに第二ヴァチカン公会議から20年ほど経ていたが、私も「時の子」として、キリスト教がそれぞれの民族・文化内にどのようにインカルチュレイション(文化内開花)するかという課題を背負っていたので、この「内観」という方法をなんとかキリスト教内部に伝えたいと考え続けていた。
2 「内観」との出会い
@ 大和和郡山の吉本威信師が普及に勤めておられた内観を紹介しておこう。一週間、屏風(障子)に囲まれた畳半畳の遮断的空間に閉じ籠り、自分を深く知り、自己洞察へと導くものである。方法は朝5時半起床し、夜9時半の就寝までのあいだ、トイレと入浴以外は屏風の中に籠もり続けて、自分に向き合う。まず、母親から始まり、自分の身近な人、係りある人ととの関係を、内観の「三項目の枠内」(@していただいたことはAお返ししたことはB迷惑かけたことは)において、調べていく。ほかに、「うそ」「ぬすみ」「養育費の計算」などの身調べもある。面接者は一日に7回から10回、内観者のいる屏風前へ数分間の面接に来てくれ、内観の報告を聴く、というものである。
吉本師は、若い頃からご自身、浄土真宗の一派にあった「身調べ」という、阿弥陀如来の御慈悲に出会う「信心獲得」の集中的修養方法を熱心におこなっていた。それは「宗教的な修行」であり、「求道法」としての身調べ内観であった。しかし、彼は、より多くの人々のために、自己を洞察する方法として普及させるために、宗教的色彩を排除して、現在の三項目からなる方式を確立した。その際、「身調べ」と言う名称から、仏教用語の「内観」という呼び名をつけた。その後、飛躍的に発展した内観法は、「内観」といえば、吉本威信師の開発した「身調べ=内観」を指し示すほど普及した。吉本威信師が宗教的色彩を排除したとはいえ、内観の本質としての「求道性」を抜きにしては、「浅い内観」に終始する。そしてややもすれば感謝・報恩にいたらず「罪悪感の内観」にとどまる。(吉本威信著『内観四十年』春秋社参考)
A さて、すでに「内観」は「内観療法」などと呼ばれ、主としてカウンセラー、心理療法士、精神科医たちによって、広がりつつあった。内観学会、内観医療学会、内観国際会議なども設立されて久しい。
私は「内観」を「内観道」として把握し、イエスの福音が日本人の深層意識領域にまで届くにはどうすればいいか、キリスト教の日本への土着化(=一人一人が身についた信仰者となるために、真に福音化されるには)という課題のまえに、一人の求道者として、歩むことになった。つまり、吉本威信師が本来の身調べ修行(求道の道)として考案し普及させたが、その後、彼の手を離れて心理療法として展開していくが、吉本自身も予期しなかったかもしれないその大方の流れにあって、私はむしろ「本来的な内観」の方向への関心を持った。つまり、私の目指すところは、内観療法という心理学的治療方法から、内観の本来の宗教的営みへと回帰し、キリスト教化することにあった。
様々な宣教者・修道女・信徒も私と同じような意識、仏教とキリスト教の対話とかキリスト教の文化内開花などという意識を持ち、ある者は禅寺に向かい、坐禅経験を取り入れた。私も、当時、イエズス会のラサール神父が開いた秋川神冥窟に参じた事もあった。しかし、「吉本内観」は「禅」の流れから出てきたもではなくて、念仏専修する「浄土真宗」からのものであり、もっと庶民的、在家的、街中的雰囲気があり、小学生から老人まで、だれでも出来るものであった。普通の大きめの民家で研修が行われ、畳のうえに屏風(障子)を立て、食事をお膳で屏風まで運んでくれ、自家の風呂に入れてもらう。参加者にとってまさに日常性の真っ只中で内観するのである。様々な現実的な悩みや問題を抱えた人々を司牧(ケアー)するものとして、高尚な禅よりも庶民的な内観のほうが親しみやすい。実際、面接指導者は、台所の心配や家事の諸注意も行い、自ら内観者のもとへ参じて、内観者に向かって深く正座礼拝する。これは禅堂での面接と逆であり、下降的受肉的であり、より一層遜った、仕える者の姿を現している。
B その後、様々な悩み・苦しみ・病みを抱えている人々の同行者、現実的な「癒し」の奉仕者としてあゆむべく、小教区司牧を離れて(1994年)、私自身の「心の内なる旅」が始まった。神父になり20年目に、再び「出家」の旅に向かった。
1996年に、縁があってある隠世的観想修道女達への内観同行をするようになり、それ以後「キリスト者のための内観」を積極的に同行指導するようになった。それ以降の私の「心の内なる旅」は「内観の源流への旅」と「キリスト教の源流への旅」といえよう。
3 二つの河の源流への旅
@ 最近はあまり考察されていないが、「内観」のことを「内観法」・「内観療法」などと呼ばれ、内観を利用するそれぞれの立場から表現されている。「内観療法」としては、日本発の精神療法として、欧米、韓国・中国においても注目されている。
しかし、そもそも「内観」はどこから出てきたのか。吉本師は、称名念仏を専修する浄土真宗を背景にして、阿弥陀如来への絶対的信を獲得する方法としての身調べ内観を広めていた。こうして私は内観の背景・土壌である「仏道」を学ぶことになった。主として大乗仏教における「大乗起信論」「唯識論」「天台の止観」である。私はあくまでも「キリスト教と仏教」「日本のキリスト教の文化内開花」を課題としてもち、「内観」を求道的な「内観道」と受けとめていた。キリスト者のためには「内観黙想」あるいは「内観瞑想」と呼び、意識の深化、信仰の深化のためにセンターを設立し(「こころのいほり 内観瞑想センター」)、日本におけるキリスト教の修行の道として実践模索をつづけている。
現代思想の特徴は、はなはだ「外観的」「外向的」「批判的」であるが、仏教思想はより人間の内面意識に関心が強く、悟りや解脱のために、自らの内面に下ってゆく。仏教各派で学ばれる「唯識」によると、自己意識内にある各層を突破して沈下する際、現象世界の様々な囚われを認識し、それらは心が作り出した実体のない幻想や歪曲であるから、その一層深層へ下って究極の真実(真如)に到達しようとする。それが彼等の宗教的修行の中味である。そして、心に動揺のない、より透明で静寂な自己に達する「道」が、一般的な仏道の教える生活である。こうして深層意識への内面降下の方法、「実践の道」を教えることから「内観」は「内観法」とも呼ばれている。こうした深層意識への降下は仏道自身が持つ特徴であり、浄土真宗の土壌から「吉本内観」が出てきたことはうなずける。
仏教から学ぶもうひとつの実践の道は「止観」であった。これは、『天台小止観』(岩波文庫版があり)が教えるものである。「止観」という修行実践方法は、禅にも浄土にも共に含まれている。私は、禅であるか浄土であるか、という宗派の見方から自由になり、人が救われていく上で仏道はどのような叡智を教えるか、「禅浄双修的」立場からの模索であった。内観指導現場では、「呼吸法(止)」を内観者(観)とともに行うことは、内観の深まりの効果がよくて、これは切り離せないものである。実に、「止」と「観」は裏表の相互関係にある。
現実の内観者は、人間関係の見直しからはじまり、様々な「生き方の不快感・不全感」、親子・夫婦間のトラブル、進路についての悩み、心の病、アルコールや他の嗜癖(アディクション)、神経症気味、うつ病気味の人もいる。さらに、学校の要請に従い、大勢の中学生、高校生、大学生たちが一堂に集まり、一斉に内観実習を行うというケースも幾多ある。こういう訳で、私の宗教的営み=求道は、研究分野でのものとして学問の世界に閉じられたものではなくて、目の前の具体的な生身の「人」とともに歩むもので、「癒しの領域」「教育の領域」がほとんどであった。
A 第二ヴァチカン公会議後のカトリック教会では、内部刷新・宗教改革が促進されており、他宗教、各民族、各文明のもつ良さをキリスト教信仰の中に取り入れようとする運動が盛んになってきていた。仏教への関心が強くなり、特に「禅」をキリスト教の「祈り」や「瞑想」に取り組む修道者や司祭が増えていたことは先にも述べた。その象徴的出来事として、1979年、「第一回 東西霊性交流」が行われ、日本の禅僧たちがヨーロッパの修道院を一ヶ月に及ぶ、修道生活体験がなされた。その返礼として、1983年、主としてベネディクト会系の修道者たちが、一ヶ月間、日本の禅寺修行生活を体験した。この「東西の霊的交流」は今日に至るまで継続している。
私自身の場合、もっと庶民の中に入りこみ、庶民の悩みや心の病をも扱う「吉本内観」に出会い、以後、専ら内観法を自分の司祭的な使徒職活動として歩んでいる。親鸞(1173〜1262)を宗祖とする在家の念仏仏教である浄土真宗を出自とする吉本内観は、僧堂に鎮座するのではなく市井で悩める多くの人々の救済・奉仕であるところに心引かれる。吉本内観は、普通の民間家屋で行われていたことも、庶民と身近に感じられ、近づき易さがある。「内観」「内観法」は本来宗教的な「身調べ」という浄土真宗の信心獲得法から出発しているので、「宗教色」を排除したと言いつつも、吉本内観には人間の究極的問い掛けである「無常観」「死」などのテーマが潜んでおり、宗教的「求道性」が背景にある。浅い内観から深い内観へ進むにつれて、究極的な幸福とは何であるか、死んだらどうなるか、無量寿(永遠のいのち)とは・・・の問い掛けへと進む。そういう「目的性」「方向性」が潜んでいる。
「キリスト教と仏教」という宗教の枠組みは違うが、吉本威信師が目指した本来の「求道法」は、キリスト者が信仰の内面化を行う道、内面降下、脱自、没我の道に近いと感じた。吉本内観と出会ってから自らも「求道の道」を歩み始めていくのであるが、たくさんの深い問題点を孕んでいた。これはキリスト教と仏教の対話の試みであるが、西洋的教会と東洋の仏教の「思惟枠」の相違があり、他方、人間の普遍的な根源的宗教的欲求を満たす共通現象(構造)の考察がある。西洋で育った哲学・神学などの諸概念の再吟味などが必要であり、深層心理の領域(意識構造)とも関係してくるので、まだまだ長い研究が待たれている。
一旦、内観療法などと区別するために、「内観道」と自覚しつつ、いわゆる「キリスト教の文化内開花(インカルチュレイション)」に携わっていると自己の立場(主軸)を定めているが、容易な事ではない。この「心の内なる旅」は、自ら「瞑想」の領域に進む。「瞑想」は、分別知をこえた無分別知へ、知性的に神を把握することから、全人格的に、体験する方向へと進む。ここにおいて、キリスト教東方の伝統を持つ、「砂漠の師父」や「ギリシア教父」たちに辿り着くという方向に来ている。
B こうした問題意識は、私自身の信仰を読み直すという作業が同時平行して進んでいく。西欧化されたキリスト教理解をためらうことなく行ってきていたが、そこからも、一旦、切り離して、自分と人々の生身の現実、そして、その現実に対して、聖書は神の救いをどのように語っているだろうか。神学校で学び、書店で見出せる「神学」「聖書学」の多くは欧米人によるイエスの教えの解釈本であり、さらにそれらを翻訳したものである。つまり、「非アジア的思惟」のものである。それらを、一旦、脇に置き、自分に正直になって、再構築する作業である。
C キリスト教の本来は、イエス・キリストによって啓示された神の教えを、ヨハネは神秘的に味わい顕し、パウロも内面深くにおいて神秘的に把握した。初代・古代キリスト教は、そうした教えを受け継いだ。その後、数百年後西方においてキリスト教が広がる中で信仰把握は理性的・合理的把握の傾向を進む。外観的キリスト教への道を歩む。広がりの道であり、自己変革であるよりも他者を変える道への傾きがあった。ある意味で、これは西欧なりのキリスト教の自己展開であった。他方、東方の正教会は聖書に基づき砂漠の師父達やギリシア教父達の「伝統」に従い、修道の道を歩み続ける。西欧教会が取り始めた道、すなわち、聖書を人間の理性的把握・理解(分別知)するという傾向での解釈方法と比べて、東方の道は、古代以来、最初の、七つの公会議の伝統に忠実であろうとする道である。つまり、東方の伝統は西方とは逆の視点で、自己を聖書の教えに従わせるために、神の恵みによる自己変容の道である。東方正教会は、今でも神からの啓示を内観的(神秘的に)に把握している。
こうして、人間の意識の深層くだりに関して言えば、仏道や東方キリスト教の修道性において共通の求道性を見出すことが出来る。
U 「霊的」ということ。
医学は、当初、身体的(フィジカル)疾病に関して、人の救済に当たっていた。その後、心理的(サイコロジカル)な領域に関しても、不健康である状態(病)に対して、治療するようになった。「健康」と言う概念が、体の領域から、心理的領域へと拡大された訳である。「心の病」と言う現象は人間の「人格」に関する病でもある。「人格障害」などと呼ばれるように。さらに、1980年代には、「病」の概念が、社会的、「霊的(スピリチュアル)」領域にまで拡大された。特に、アルコール(および薬物)依存症などと関連した治療において考えられた。こうして、本来、人間が有している「健康」状態の理解が、身体的次元から始まり、心理的・人格次元へ、そしてさらに霊的次元へと深まってきた。
人間の心の内面は深くて複雑である。諸宗教は瞑想・修行の実践に伴い、数千年にわたり、心の解明を行ってきた。ヨガや唯識が然り。キリスト教においても、イスラム教においても、それぞれの内面降下の解明と指南がある。現代の心の病、うつ病などの治療に際して、それらの智慧を学ぶことが出来るだろうか。「内観における霊的介入」という課題が出てきた。
1 「霊的」を指す様々な意味
@ 従来、「霊的」領域は、宗教の領域の事柄であるとみなされていたが、今日、医学の領域においても取り上げられるようになった。これは、自然科学、精神医学という学問の「人間把握」が深まり、「全体的」に把握しようと努力している現われであろう。古来、ギリシア・ヘブライ人たちは、人間を、体(ギリシア語でソーマ)・魂(プシケ)・霊(プネウマ)の要素が相互に密接に関係つけられた全体として、なっていると考えてきた。現代まさに、「病気と治療」が、体の病の次元から、魂の病の次元へ、そして霊の病の次元へと拡大(深まって)してきた。これは従来の医学(自然科学)が人間を分節化したものとしてではなく、ホリスティク・全体的に把握しつつ、哲学や宗教と共通の話題で研究してゆく領域に入ってきたといえる。
A ところで、「霊的」を意味する「中味」について、それほど、明確ではないように感じる。同じ東洋であっても、日本における「霊的」意味のニュアンスは、韓国、中国においてはどうであろうか。アメリカ、ヨーロッパ、アフリカにおいては、どのように把握されているかとの吟味も必要であろう。キリスト教では、仏教では、自然宗教では・・・と言うカテゴリーにおいても同じである。
中国では「気」とか「精」とか訳されているのだろうか。「吸う」ことであり、人が外(の環境や物質)などから、別の「気」「霊」を吸収して、あらたな気分になること。例えば、森の中、岩の間に小川のせせらぎ、新鮮な空気、オゾンがみちあふれているようなで、森林浴の出来そうな場所に、力を抜いて、身を置く。そこに発する、あるいは、漂う、「空気」や「気」を「吸う」。そういう状況で、感じることや味わうことは「霊的」であると見なされる。
B 現代ではスピリチュアル(霊的)ということばが多用されているが、果たしてどのように理解されているか、吟味する必要がある。アメリカで流行した精神運動的(ニューエイジ)なものや、オカルト宗教や新宗教(キリスト教系であれ、仏教系であれ)、秘密結社的な教団でも「霊的」という表現が使われる。彼らは「霊的」と言う言葉により、現実の社会や世から「逃避」し、現実とは別の環境(場所、集団、生活)を作り、そこでの修行的な生活を「霊的」なものであると見なしたりする。この現実からの「逃避」は、様々な依存症、アルコールや薬物などへの逃避と似ている。つまり、現実逃避して宗教依存(嗜癖=アディクション)をするのである。そうした宗教的呪縛がもたらす結果は、真実の悟りに至るよりかは、反社会的事件を起こしたり、精神的病などを生じさせたりする危険がある。
C あるいは宗教組織内部での階級・ステイタスの上位という、カリスマ的な立場や意味を「霊的」と見なし、上昇志向に馴染んでいる現代人の欲望をたくみに利用する場合もある。あるいは教義によって、現実を超えた超自然的な存在者や悟りをうる道を説き、信徒の思考を呪縛し、悟りを開いた教祖への絶対的従順を求めることがある。霊的である指導者や教祖が、自身の清められていない「エゴや欲望」の支配下に信徒を置くという、悪魔的な意味での「霊的力」で組織を団結させ、自己の利益を得ようとする。他者を支配するための「力」としての「霊的(カリスマ)」なもので、信者の自主・自由を取り上げてしまう。これは正しい「霊的」意味ではない。宗教的仮面をつけた「利己的」「世俗的」「共依存的な」歪んだエゴである。また、「霊的」能力を「所有」することを目的にしている団体もありうる。チャクラを開くために修業し、それによる能力を所有することや資格を習得することを目的とするなど。これらの場合、実は本当の意味での「霊的」なことから離れた、所有欲や上昇志向欲という世俗的な欲望ではないだろうか。
D 霊的(スピリチュアル)云々するとき「霊と肉」を、二元対立的で観念的に把握している場合もある。「霊と肉」という風に、二元対立的な概念でいわれる。人間把握がプラトン的哲学の影響を受けて、それを継承しているアウグスチヌスの流れにある西洋哲学・神学の傾向でもあり、近代以降では哲学者デカルト以来、西欧の科学至上主義文明では顕著である。こうした霊肉分離・二元論的思想は、西欧式キリスト教や欧米での精神運動などに著しく影響を及ぼしている。
以上の傾きに注意を払いつつ「霊的・スピリチュアル」を把握しなければならない。東洋人の人間把握はもっと動的(ダイナミック)である。ヨガや禅で言われている「調身・調息・調心」という人間全体の相互作用の考えや、「心身一如」などという身体性を大切にした言葉を持ち、「道」(タオ)と言われる限りなく極め続けていこうとする求道的な把握方法を持つ東洋人は、人間を霊肉二元対立論的な把握はしない。全体的(ホリスチィク)に把握し、しかも大自然と親しむ(共生する)感性を持っている。
2 「求道性」を意味するスピリチュアル(霊的)
@ 「宗教religious」と「霊的」ということを区別しておくこと。教団組織や教義的教え・典礼・儀礼・慣習などの合理的分別的に理解出来る可視的な領域を「宗教」とすると、それらの宗教を形成している根源的な宗教的欲求、人間の内面的な欲求に関する事柄を「霊的」と呼べばいいだろうか。私は「霊的」を、「聖なるもの・超越的なるものへの合掌心」(拝む心)などと言う。世界的に有名な仏教学者である鈴木大拙氏は『日本的霊性』の中で、「霊性」とは、「宗教的意識の目覚め」だと説き、それは人間の普遍的な意識の目覚めであるという。日本に仏教が普及する以前からあったこの感性(根源的な宗教的感性)の気づきを指摘する。
A 私は、スピリチュアリティ(「霊性」)を度々「霊生」と書く。なぜならば、「霊性」と書くと、「性質、性格」などのように表面に現われてきた現象を顕すが、スピリチュアリティは人間の根底にある精神的、内面の「生き方」「在り様」そのものの発露とみる。だから「霊性」より「霊生」のほうが、人間のより根源的な生命活動全体を現すので、ふさわしいと考える。それはたえず迷い自己に執着し続ける「心」「?」の介入する以前の「生」であり、思想や時代や文化や風土の影響を強く受ける以前の「生」と関連していると見るからである。霊生は、人間が生命の営みをおこなう際に、生涯にわたり躍動し続け、変化生成し続けて、止まる事をやめない、人間の止むに止まない深層からの欲求の現われと見る。
B 季刊誌『風』(現在は本学の山根公道先生が発行人)を発行しキリスト教日本文化内開花に努める井上洋治神父は、スピリチュアリティを「求道性」と表現しているのも興味深い。また、吉本内観の本来は、この「求道性」が豊かであった。また、最近お亡くなりになった吉本師の高弟の長島正博(2010年5月21日帰天)も、近年の内観の広まりを喜ぶと共に、この「求道法としての内観」が薄れてきていると、警告を発しておられた。(季刊誌「やすら樹」 2010年9月号 no123 参照)
C 「求道性」と「エペクターシス」
それでは求道性をどのように見ればいいだろうか。聖書から見てみよう。競走馬が出発ゲートの開くとともに、各馬いっせいに目標を目指して走り出す。首を前へ伸ばし、鼻を前に出して、体全体を前方へ傾けて「驀進」する様。ひたすら、一途に真っ直ぐと進む様。あるいは鶴が飛び始める際に、羽を広げて長い首を前に真っ直ぐ伸ばして、体を前に傾けて飛び立ってゆく様。こういうイメージを、ギリシア語でエペクターシスという。「鶴首待望」とも訳され、目標を目指してひたむきに走ること。前のものに全身を傾けつつ真っ直ぐに向かう様。これはパウロがフィリピ書において示したものである。「私は自分がそれをすでにしっかりとらえているとは思っていません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのことを忘れて前のことに全身を傾け、目標を目指してひたすら努め・・・」(3の13・14)。ギリシア教父であるニッサの聖グレゴリオス(330〜394年)がその著の中で強調する精神的態度である。キリストに向かって生きる信徒のとどまることない上昇的在り様のイメージである。こういう姿、求道性、エペクターシスこそが、「スピリチュアリティ」であろう。すなわち、現在の生き様を超えて、より高次な生命に向かって生きようとするところに霊的なものがある。それは、生死をかけた内観、死を取りつめる内観、無常観に達しようとする内観によって、体験されてくる領域である。
吉本内観では、面接者が「今、死んだら、どこへ行きますか」「あなたの人生の目的はなんですか」「何のために生きていますか」などの厳しい問い掛けを行い、内観者を奮発させて、究極の目的を自覚させる。屏風をはさんで面接者と内観者の空間にピリピリと張り詰める空気に「求道性」を感じるが、まさにこのより高次ないのちに向かおうとするものが霊性である。
このスピリチュアリティは、何であり、どこから出てくるのかの理解を深めてみよう。知性や魂とどう関係しているのかの把握を整理しよう
3 聖書での「霊的」とは
@ 英語のスピリチュアルは、スピリツス(spilitus)というラテン語からきている。スピリツスは、「霊」「風」「息」の意味がある。同時に、「精神」をも言い表しているし、アルコールの「度数」をも示す。スピリツス「霊的」は、もとは「息」を意味するという点に注意を払いたい。さらに、遡れば、ギリシア語では「プネウマ」と言い、ヘブライ語では「ルアハ」という。
A スピリツス、プネウマ、ルアハにはもともと「風」「息」の意味がある。「風」には神秘的な側面があり、見えないが、力強くて樹木や家屋を倒したり、台風を引きおこし、大自然を破壊する力となる。他方、微かでそよ風のような心地よい風もあり、夏の猛暑に熱風を吹かせて大地を不毛とすることもある。「息」は「風」と同じように見えないが、息は生き物を活かし、生命を宿らせる。息が止まれば、死んでしまい、息を与えると肉体に生命が宿る。
B 以上のように、スピリツス、プネウマ、ルアハは、「息」「呼吸」との関連でも言われている。こうしてみてゆくと「霊」は、生命のなにか本質的なもの、しかし、つかみ所のない不思議な側面を持ち、何かの機能的(部分的)側面と言うよりも実体の中から湧き出てくる要素であり、生きる根源的要素である「呼吸」と繋がった概念である。
C 創世記2章では人間の創造物語が書かれている。神は創造の最後に、ご自分の像に似せて人間を造るときに、ある動物(塵)の鼻の穴に、ご自分の「息」をハアと吹きいれた。つまり、ご自分の霊・息・呼吸(=ルアハ)を吹き込んだ。それで、そのものは「生きた者」となった、とある。人間は他の動物と違い、神の息を与えられて、それを吸うことで神の前に生きる者となった。そういう存在者として描かれている。
深い呼吸をすることで、ヒトはより人間らしい生きものとなる。浅い呼吸では、動物のように舌をだしてハアハアと我執と欲望のままに本能的に生きるようになる。深い呼吸をすれば、神の息吹に載るようになり、神の特長である愛と慈しみの心が湧いてきて、人は(愛である)神の似姿を現すようになる。このように創造された人間が、もし、深い呼吸に欠くならば、人の根源的欲求の満たされない状態に置かれるということになる。そういう状態に置かれた人間は、根源的な不全感・欲求不満から、他の紛らわすものを吸う(スピリツス)ことに陥る。それが病の深層原因である。
聖書の他箇所を読んでいると、神のあわれみの愛は、「怒るに遅く」寛容で慈しみ深いことを、神は「息が長い」と書かれている。他者に対して怒るに遅く寛容であるのは、長くてゆったりした呼吸の結果であろう。逆に、働きすぎて「息が短くなる」と、人の言葉や注意が聴けなくなり、「忍耐がない」と翻訳されている。
D そして内観の三項目(@いただいたことAおかえししたことB迷惑かけたこと)も、実は、呼吸・霊と繋がっている。呼吸は息を吸い、息を出す。それがどちらかだけでも滞ると、苦しくなる。空気を「頂いて」「お返し」することにより、「生きる」のである。また、食べ物を頂き、トイレで出す。いのちはそういう循環運動をする。この体の自然のリズムは、心の自然のリズムでもある。このリズムはそのまま内観の第一第二の問い掛け、「いただいたことは」「お返ししたことは」である。これが滞ると体や心の病に至る。心と体の呼吸のリズムを調えることが、健康になる道である。いうならば、「内観は心の呼吸法」である。
E 全体的人間把握としての「霊的(プネウマ)」ということと、その向かうところはどこにあるのであろうか。聖書での人間観(ユダヤ・セム系の人々)は、体(ソーマ)と魂(プシケ)と霊(プネウマ)の要素を含む全体的存在者を考えている。体については説明が必要ないだろう。魂には「知・情・意」という諸能力がある。霊はそれらを超えた要素、人間の独特の、同時に不思議な要素として述べられている。三者は、単独であるよりも相互が関連し、全体として人間を完成させると言う考えである。分離したものではない。霊は魂を引き上げ、魂は体を引き上げる。しかし、体と魂は霊を落下もさせる。霊は、「神の霊」に呼応する能力であるから、神の霊を受け取り続けなければならない。
聖書では、神が物質的な人間の体(ソーマ)と似た既にある材料(塵という素材。進化論的にいうならば霊長類?)によって「人間・アダム」をつくった。その際、プシケ(魂)とプネウマ(霊)を与えることによって「神の似姿」としてつくったとある。霊・魂・体は、分裂独立し、対立的にあるのではない。各要素は、補い合いつつ、ホリスティクに完成・成熟してゆくと見ている。全体として、人間はたえず創られた目的に向かい変化生成し、人間として完成してゆく過程(プロセス)の中にあり、罪や悪もその過程の中にある諸現象であると見るのである。まだ、未完成な存在として人間はいる。神の似姿としての尊厳に生きる、「神化生成する」過程のなかに方向性・目標がある。つねに上に向かって歩むことが重要とされている。先ほど、「求道性」を述べたときに「エペクターシス」の概念を示したように、もし目的に向かって進むことしない場合、あるいは目的が明確でない場合、本来的根源的欲求を満たさないが故に暗闇に落下・堕落してしまうと考える。
「上に向かう」ために、魂(知情意)の働きの教育、霊(呼吸・息)の律動に従う修業の必要性をいう。従って、内観者が内観を深めるために、何らかの知的教育を与えられること、無知からの脱出が必要であるが、同時に息(呼吸・霊=プネウマ・ルアハ)を調えることが必要である。そこに同伴する面接者自身はこれらの指導が出来る霊的資質・度量が求められる。
こうした聖書理解は、東方ビザンチンの伝統のキリスト教でなされている。他方、西方教会では人間の各要素を分別し、区別し、詮索する方向、つまり、科学的分析の手法の傾向へ進んだ。結果、体と魂と霊をばらばらに分析・解析する方向へ進んだ。東方の修道者たちは、そういう精神的態度を斥け、静かな場所で、呼吸を調えて、神の名を呼吸とともに念ずる「行」をおこなう。体も魂も清めの作業を行い、霊的にも透明化されて、やがて究極の神との一致へと向かった。つまり、呼吸を調えて精神を落ち着かせ(「止」)、自分の内面と社会と世界と宇宙の理(ことわり)を観察(「観」)し、神へ向かうことからはじめる。体と魂と霊を清めて、様々な煩悩や古い習慣から解放され、「神化」の道を歩む・・・・。ビザンチンのこうした霊的修道の道は、ヘシュキア(魂の静寂、平安、沈黙など)を保つ事を主としていることからヘシュカスム(静寂主義)と呼ばれている。ちなみに岳野慶作は(メイエンドルフ著『聖グレゴリオス・パラマス』1986年翻訳 中央出版社)ヘシュカスムを「止観主義」と訳している。
F 「呼吸の調え(止)」と「心の観察(観)」といった。こうしたことは、東洋・仏道の修業方法と重なる。中国の天台山で多くの僧が修業した「天台宗」は、朝鮮半島をへて、日本へ伝えられた。日本の最澄(伝教大師)ほか、円珍・重源・栄西など多くの僧が留学したが、そこでは「天台」の「止観法」が教えられた。「止」と「観」である。静止して、心を外観に乱されずに一つの対象に集中する(samatha)ことと、それにより正しい智慧をおこして対象を観する(vipasasyana)ことである。それらを簡単に言えば「止」とは呼吸法であり坐禅である。「観」とは「観心法」であり、内観もそれに属する。正しい見方(知識)が健康に生きさせる。正しい見方は、正しい呼吸によって得られる。内観と呼吸法は表裏一体のものである。そこで、私のセンターのプログラムでは、内観と呼吸法を伝えている。両者は、互いに補う関係にある。そして、それは、キリスト教東方の伝統において(ヘシュカスムにおいて)も実践されていた事柄でもある。
4 面接者自身の「霊的目覚め」の必要性
さて、一週間の集中内観を行う内観者に同行する面接者の事に触れておこう。吉本威信師は、だれでも、面接者になることが出来る、と言われた。確かに、内観するのは内観者自身であるから、面接者はひたすら聞き役に徹する。しかし、他方、面接者の存在は内観者をして真剣に内観させる存在でもある。本当に内観になっているか、外観に終始しているのではないか、分別知の迷いの中をグルグル回りしているのではないかなどの検証役として、自らも内観経験を深めている面接者が相応しいのは言うまでもない。また、密室でもあるために、倫理的にしっかりした態度を持つ面接者であることが求められる。いくつかの面接者に関する事を述べよう。
@ 魂の領域での治療・癒しのために相応の学びや研究、実習が必要なように、霊的領域においても、面接者は「霊的な目覚め」の深まりとその実践修行が必要である。霊的な知識と実習と生きた生活態度のうちに霊性を顕すことが必要である。盲人が盲人を導けないように、霊的盲目な面接者は内観者の霊的欲求を満たすことが出来ない。
A 面接者自身の知情意が調えられ、生活も調えられて、内観者に「霊的な清々しさ」を味わわせることが出来る。面接者自身は求道的であり、呼吸法や瞑想などの実践において、「霊の清さ(我欲からの解放)」を求道し続けることが必要であり、生活態度においてもそれが表れている必要がある。
B 面接者自身が、毎年、「自らの集中内観」をおこない、自己の内観をふかめるべきであること。面接者自身の内面的資質の向上なしに霊的目覚めは生じないだろう。霊的目覚めに欠くならば、内観者への目覚めへの促しも不可能であろう。
V 「うつ」ということ
さて、この章では「内観とうつ」について述べておこう。日本では年間3万人以上の自死者が、十数年も続いている。そして、その多くは「うつ」的な状態での自死であると報告されている。そうでなくとも、現代の複雑で絶えず緊張を強いられる社会生活・家庭生活において、「うつ」(様々な程度がある。うつ状態、薬を飲みながらも現実生活のできる場合とか、入院の必要な場合とか)をわずらう人が増加してきている。「うつ」の人にとっても、内観を継続するならば、健康のために効果的である。
心が重く、暗く、やる気が起らず、疲れてダルイ。うつ的気分は誰でも経験する。それが、重くなると「うつ病」となる。人間の具体的生き方や環境、気質が様々であるように、一人一人が違う人格であるように、「うつ」の現象や現われもざまざまである。一つとして同じものはない。原因を探し、そこから回復するために、内観は一つの方法であろう。医学的にはdepressionというが、日・中・韓の漢字文化圏では、共通して「鬱(うつ)」と表現する。これは「うつ」現象を考察し、対応するためには好都合である。
1 「うつ」という漢字から考察してみよう。
@「鬱」という漢字には積極的意味、消極的意味の両方がある。鬱の熟語として鬱蒼、鬱血、鬱気、鬱林、鬱念、鬱病などがある。よく用いられる「鬱蒼(うっそう)」というのは、林の中の木々が茂り、光の届かなくて、そこに入れば木々の呼吸で息苦しくなるほどの茂みの状態である。手入れされていないままの林は、しかし、生命に満ち溢れている状態でもある。それは、生命が順調に伸びることなく、茂り過ぎた状態でもある。その状態は、樹木同士の混雑によってうまく育たずに、やがて枯れてしまう部分もある。植物の生命の過剰により、そのエネルギーがかえって木々を枯らしてしまう。要するに、樹木が手入れのなされないままに茂っている様である。こうした自然現象を観想(瞑想)させている文字が「鬱」である。
A 「鬱蒼」に対しての対処するために「間伐」、あるいは「剪定(せんてい)」する方法が取られる。適当に切り倒したり、枝払いをしたりして、風通しを良くし、太陽の光が適当に射し込むようにすると、木々は育つ。よく収穫される田畑や果樹園は、絶えず手入れされて整理整合されている。雑草も定期的に抜き取られて、実りが生じる。問題は、どの枝を切り払っていくか、思い切って幹すら切り倒すかなどであるが、それは植木職人の経験と智慧がものをいう。剪定をして、生命力をのばしてやることの必要。
B 次の対策は、木々が育つ「方向性」「目標」を与えてやること。植物については、普通、太陽の「光」の方に元気に伸びてゆくよう仕向ける。そうすると、木々は伸びやかに大きく成長をはじめる。
2「うつ」症状の人を含めた内観者に対する心得
木々が「鬱蒼」と茂っている場合に観たように、人間の心理的な「うつ」にたいしても同じ観かたが出来る。「剪定」と「目的性」という二つの対処方法は、「うつ」に対しても共通する面がある。
@ 内観は、人間の生き方の全体的反省であり、稔りある健康な人生を送るための方法である。それは「対処療法」ではなくて「根治療法」である。「生き方」の根底からの改善を目指している。現象としての病症(うつ、神経症、アルコール依存症とか)の根っ子(原因)を、内観者と共に探る。内面において混乱している考えや心理や欲望を明るみにして、「調えて」ゆこうとしている。人生を整理整頓しようとしている。いわば、「心の中を剪定」をするのである。家庭の主婦たちが家内の整理整頓術としてはやった「断捨離(だんしゃり)」という言葉がおしえるように、様々なものを、断ること、捨てること、離れることなどを行いながら、生活や人生に「剪定」「間伐」をするのである。快適で身軽な人生を送ろうとする。
A アルコール依存症の回復のプログラムで有名な「回復の12ステップ」は霊的プログラムといわれているが、そのプログラムは、「生き方の回復のプログラム」でもある。内観における「うつ」に対しても同じように「生き方の回復」を提供するが、それは面接者の技量と本人のある程度の「やる気」にかかっている。内観は「生き方の回復として光の方向」へ促す。
健康(ヘルス)的生き方のために、回復には大きく分けると三つのプロセスがあるとみている。「癒し(ヒーリング)」の領域、「矯正・教育・黙想」などによる生き方全体を健康的な方向へ進ませる領域(ホリスチック)、「瞑想」などにより高次ないのちの次元に向かい、自己を超えた領域(ホーリー)への志向というプロセスのあるプログラムである。これらをさらに、内観者の具合により、細分化することが出来るであろう。今置かれている現状のさらに質の高い生き方へと飛翔してゆくことで、根源的欲求を満たそうとする。これは「目的性」「目標」を示すことであり、「太陽の光」に向かった成長への促しである。
B それには、「内観の継続」が必要である。内観の継続は、日常生活の改善へと促される。この継続の中で、余分な枝や全体の発育を妨げている枝葉を剪定して「うっとしい心」の内部を調える。魂の内部を整理整頓すると太陽の光が射し込むようになる。これは、本人も痛みを覚えることがあるかもしれないが、剪定するのは全体の成長を良くし、太陽の光を浴びるために必要なことである。
さらに、内観の継続にさいして、「暗い思考方法」(闇の思考)から「明るい思考方法」(光の思考)へ選択を促す。
面接者は、内観的思考方法(三項目)での身調べの同伴をするが、病気のためある内観者にとってはこの思考が無理な場合がある。まさに、それが無理なところが病症であるが、内観者の状況に合わせて、時系列の振り返り作業、過去の思い出を語る話に、同行し「傾聴」する期間が必要であろう。これらが前提となり、上記の@ABと上昇してゆく。
C 叙々に、生き方の基本的な指針を教えて、訓練しつつ、「四つの調えること」を行う。
(@)体を調える、「調身」。
(A)呼吸を「調える」、「調息」。
(B)心を調える、「調心」。内観は調心である。屏風という遮断的環境の中で、心を調える。
(C)こうして、生活を改善してゆくこと、「調生」。三つの「調」を行う目的はこの第四番目の「生活全般の改善」である。
D 民族移動により人心が揺れ乱れ、粗野な人々の多かった5,6世紀ヨーロッパにあって、聖ベネディクト(480〜547)は、修道院制度を導入して、人間の成熟化、神を黙想・瞑想しヨーロッパのキリスト教化をめざした。彼の教えは、「戒律」に従って「祈り、働け」のモットーで共同生活を営み、「生活改善」という回心のプロセスを生きる促しをする。まさに、ここで言う「四つの調」を現実的なものとしていた。修道者たちは、早朝からの、聖書・詩篇での祈りと聖なる読書によって心(魂)を調え、共同生活での分担された作業や社会的生産的労働により体を調え、沈黙の念祷・瞑想により深い呼吸へと調える。聖体祭儀において天上のいのちを地上において先取りするという生活は、高度に仕上がった「四つの調」であろう。
3 霊的要素としての「調息」(呼吸法)のこと
@ 先の「三調」のうち、集中内観中のプログラムにおいて、毎晩共同で行う「調息」は、当センターにおいて重要視している。つまり、「調息」とは「呼吸法」である。ここに、「霊的(プネウマ)の介入」がなされていく。
「霊的」と言う言葉の原意は、「風」「息」「呼吸」であると言った。実践面では「呼吸」を丁寧に指導する。「呼吸法」により「うつ」を退治すると言う本を出している医学者がいる。それは「釈尊の呼吸法」から学んでいる。『大安般守意経 アナパーナ・サチ』で教えている。出る息を長くし、出息に意識する呼吸法である。意識的に呼吸を、長呼気・丹田呼吸するように教えている。
呼吸法を精神医学においては「自律神経訓練法」と言う。深い呼吸法により、血液中にCO2(酸素)を供給する。そうすると、脳生理学によると、脳幹にあるセラトニン神経系が活発に動き始め、免疫力、落ち着き、平安感をあたえる。深い呼吸法をすれば、その神経系が刺激されて働き始めるので、「うつ」状態も解消されていく。
A 具体的に、毎晩、夕食後の50分を、「操法」と「呼吸法」を実地している。
「操法」は、一日座り続けた内観によってこわばった体をほぐし、その後の呼吸法の準備として行う操法、リラックス体操である。20分間行う。これは「体にたいする内観」ともなり、自分の体の状態を意識する機会ともなっている。体の各部分は、筋肉により、全体とつながっている事を認識し、自分の健康状態や生活行動を見直すチャンスともなっている。
引き続いて20分間の「呼吸法」をする。正座や安座など、あるいは椅子に坐ってもよく、腰骨をシャンとして、深い呼吸を指導する。目的は丹田呼吸法であるが、呼吸法だけでも、相当な熟練が要るものであるから、ほどほどにしつつ、とに角、深い呼吸をするように導く。狙いは、内観と同じで、自己内面への集中である。呼吸法により、意識の内面化が育てられる。
集中内観後の日常内観を勧めるが、ほとんどの人は継続できていない。それで、せめても3分間の呼吸法から始めて、慣れてくると15分から20分ほどの呼吸法をするように促す。すると、3分の1ほどは、自分の現実生活で日々、呼吸法を継続することが出来ている。呼吸法が日常化するに従い,自ら内観状態へとすすむ。
4 内観に霊的要素(呼吸法)を取り入れる重要さ
@ 心身は安定した生き方となる。
A 表面的な嵐に翻弄されずに主体的・自立的に生きるようになり、自分の生き方の「主軸」がぶれなくなる。
B 他者(環境も)を変えるのではなくて、自分が変わることへ。
C 呼吸とともに、プラスの言葉(明るい思考方法)・マントラを与えて、それを繰り返すことに意識化させる。
「感謝します」「うまくいきます」「大丈夫です」「主・イエス様 ゆだねます」とかの言葉を繰り返して使うように指導する。キリスト者の場合「主・イエス、私を憐れんでください」という東方教会の「イエスのみ名を呼ぶ祈り」を紹介している。
D 物事の表層領域的生き方から深層的生き方へと変化する。
いただけないものをも、いただける思考へ。他人から理解されることか ら他人を理解することへ。
これらが求道的(スピリチュアリティ)生き方となってくる。
5 内観の継続
@ 強制することは出来ないが、内観の継続を勧める。鬱で苦しんでいる最中の人は、内観に参加できないのが実情であろう。しかし、軽症な鬱の内観参加者は増加している。
A 先にも述べたが、内観の繰り返しのうちに(継続)、徐々に整理できて、生活の目標が定まり、安定した人生へと進む。生活改善へと導く。
B その際、必ずしも一週間の集中内観でなくても、短いものでもよし。
W 学校内観ということ
1 教師たちの願い
内観することにより、自分自身を知るようになり、他者や環境に振り回されなくなり、より深みのある主体的な人生を生きるようになる。信仰を持つ人には、観念的信仰や信心型信仰により外観的信仰に終始していることから、心・内面的なセンスを持つようになるので、内なる神とのより親しいものへと変わって行く。内観を受けた教育現場の教師たちは、この困難な時代の生徒・学生に、是非、内観と呼吸法などを実習してもらいたいと望むのは、自然のなりゆきである。私自身も、若者の内観の同行を行いながら、驚くほど現代の若者への教育が、知的偏重であり、魂や心の教育が充分でなくて、そこから社会や家庭での複雑な人間関係において、混乱や当惑を持っている事を経験していた。若い時代にこそ、深い呼吸と内観を伝えたいと強く願望していた。学校側も、限りある時間の中で工夫しながらも、各校の事情に適応させて、「学校内観」を行うようになって、すでに10年経つ。
すでに、授業前の数分を立腰や呼吸や黙想を行い、それぞれ教育現場での効果を挙げている。しかし、呼吸法や内観は、教師たちは必ずしも専門的な実習や体験がないので、あらためて指導を請われて、内観と呼吸法を実施してきた。
2 学校内観の方法
@ いっせいに集合。教育現場で、多くの生徒・学生が、一人一人屏風に入り、個人面接を何回も受けるという方法は、不可能である。60数名が、あるいは、100名から300名にのぼる生徒・学生が、いっせいに講堂等に集まり、「立腰」「呼吸法」「内観」「体験の記録」という四点セットの実習を半日、あるいは一日、場合には、二日間行う。私の実践している大学生の場合については後述する。
A 音を聴く。直径25cmほどの大きな「鐘」を持参し、その音を聴くことから、意識と感覚の内面化を行うようにしている。西洋風の鳴り物よりも、東洋風の鳴り物・「鐘」などのほうが、聴くという感覚を通して意識が内面化され易いので、私は仏教的な「お鈴」や「鐘」を用いる。これらの「音」を聴いてもらい、呼吸法や内観の準備に入る。
B 立腰。最初に正しい姿勢をとってもらう。「立腰」という腰を立てた正しい姿勢をつたえる。これは「調身」になる。街では、猫背や腰が砕けたような姿勢でいる若者を見かけるが、それは非人間的で不自然な姿勢である。心身に良くない。美しい姿勢を、一緒に確認する。尻を後に押し出し、腹を前に突きあげるようにして、腰骨立てて、背筋を竹の様に上に向かってスクスクと伸びてゆくような感じの姿勢。肩の力を抜き、あごを少し引く。椅子に坐って行う場合、「足の裏」の十本の指と踵を大地からのエネルギーを吸い取るようにしてみる。足が地についた姿勢をとる。このとき、力まずに緊張せずに、リラックスして、穏やかな気持ちでおこなうように声掛けする。
C 呼吸法。姿勢を正し、鈴(鐘)の音を聴き、音を聴くことに集中して、落ち着いてもらい、徐々に精神統一のこつを伝える。立腰して坐り、その次に、深い呼吸。吐きながら臍の下あたりの「丹田」(腹筋あたり)にまで心を下ろしてもらう。一呼吸を10秒くらいかけて20回の呼吸に挑戦。呼吸だけに集中し、雑念を追いかけないように注意を言う。3分間ほどの練習である。深い呼吸の実習後、「合掌」を経験してもらう。すなわち、両手を合わせて左右の手のひら・指も呼吸しているのを感じ取ってもらう。合掌自体が精神統一となり、意識は内面化する。単純なことだが、教えられないと姿勢や呼吸が崩れたまま育ってしまう。
D 内観。あらかじめ、「内観の進め方」「記入用紙」を配っておき、15分〜20分くらいの説明を行い、呼吸法を7、8分し終わって、落ち着いたら、内観に入る。瞑目のまま自分を調べてもらう。三項目の枠内で自分の態度はどうであったか反省する。せいぜい、一単位の調べは15分から20分程度で充分である。母親と父親に対する自己の調べが中心となるが、友人に関する内観には、みな関心が強い。午前と午後の一日をかけると、両親と友人に関しての内観が出来る。
体験後の感想文を読むと、素直だし、感謝と反省をしている。親に対する気持ちが随分と変化する。これも教えられなければ、我欲のままに生きていき、やがて人生を狂わす。若いから修得は早い。
E 記録 内観終了の合図で、あらかじめ渡されている「記録用紙」に三項目の枠で記入する。5分から7分くらいで充分である。
F 繰り返し。以上のD「内観」E「記入」を繰り返す。状況によってはA「音を聴く」B「立腰」C「呼吸法」をも加えておこなうとよい。
3 大学における講義と実践実習
大学での実践。大学の「キリスト教学」の集中講義の中の一部に取り入れる形で、呼吸法と内観の講義をし、立腰・呼吸法・内観・記録をしてもらう。この場合も、大教室で「お鈴」か「鐘」を鳴らして心の態勢を作る。合図に従い静かに進んで行っている。内観後、各自は用意された記録用紙に三項目に従った内観を記入する。15回の身調べで母親・父親・養育費・友人を調べてもらう。彼等のレポートを読むと、効果のあった事がわかる。これを大学で続けて4年が経過する。
以上、中学・高校・大学における「学校内観」を紹介した。現代の混沌とした時代に、学生・生徒に与えるのは知識だけではなくて、こうした生きた教育実践が、非常に大事である。