「十牛図」をキリスト教的に読む試み

           (ノートルダム清心女子大学「年報」2012年3月・準備原稿より)

序章
1 それぞれの宗教は長い歴史を重ね、文化・民族性の影響を受けている。そして、それを表現する際に思惟枠や教義的な相違もある。それでも、宗教的欲求と言うものが人間の普遍的な根源的欲求であることを思えば、他を排他的に退けるのではなくて、相互に学びあうことが、必要となってきている。キリスト教を内面において体験的に把握理解しようとする時、仏教的な影響を深く刻み込まれている日本人である筆者においては、研究においても時間的な制限においても、その問題性の深さや広さの前に圧倒される。この人類の深い哲学・宗教・神学・瞑想などの精神世界を極めるための、客観的で精緻な研究においても容易なことではない。本稿は自己の中で温め続けて来たテーマであるが、依然として主観的な領域を出ない。

2 生身の自己という主軸を頼りに、考察してみるが、それは自らの「心の内なる旅」の道すがらでの記録であり、自己の求道的な記録でもあり、はなはだ無知の多いものであるゆえの無謀さを自覚しつつも、少しく書いてみる。「生身の自己という風土」に立ち戻りつつ、主観的に経てきた自分の道を紹介するというが、鈴木大拙が次の意味のことを述べていることには勇気つけられる。すなわち、「他文化の受容ということについて、大上段に構えずとも、自らの内面にくだり、そこにおいて、誠実に自己と向き合うときに、文化の受容が起こる」と。この自己の内面降下の営みは、自己のキリスト教信仰を内面深化する促しであり、信仰把握の再点検、再構築の精神的作業でもある。信仰が自己のどこまで深層にくだっており、洗礼の恵みが理性的にどのように把握されているかの大いなる反省へといたる。内面降下の道行きを支える杖は、聖書の「言葉」と多くのキリスト教会内の先達の経験からの学びにある。私の場合、この数年来、すこぶる内観的な東方正教会の「ギリシア教父」と邂逅するように運ばれて来た。 

第一章 東洋的思惟の枠組みの理解
 東洋人と西洋人のものの理解の仕方や把握する傾向の違いがあることはよく指摘されている。それで、まずは、東洋的思惟枠を形成しているとされる仏教の『大乗起信論』をザット紹介して、しかる後に『禅の十牛図』をキリスト教的に解読する試みをしてみたいと思う。なお、こうした人間の心の深海の景色については、もう少し詳しく書かれた拙著があるので、参考されたい。(『大乗起信論とアヴィラの聖テレサ 心の深海の景色』2009年 教友社 『死域にもどる アルファもオメガも 隠修士最後の対談』2009年 教友社)


1 「足の裏のマンダラ」
大乗起信論における「心」の理解を進めているうちに、浮かび上がってきたイメージがあり、それを図示化した。人間の「心」にある諸能力を整理整頓する際に便利なので、よく使用し、「足の裏のマンダラ」と呼んでいる。人間には通常考えられている「意識」よりももっと深い心の世界である「無意識」というものがあるということは、通常的に言われており、「意識」に関する概念が膨らんできた。しかし、無意識については、4000年以上も前からヨーガの瞑想実践を通して、いわゆる近代以降の深層心理学よりもっと深い内的な世界の体験として無意識は世界は知られており、やがて「唯識思想」において体系化された。「図絵(1)」を見ていただきたい。意識には、表面的意識の世界と深い深層意識領域の世界がある。しかしいわゆる「深層意識」よりももっと深い「最・深層意識領域」がある。マンダラ図絵では「足のかかとの部分」である。知られている無意識よりも、もっと深い闇の領域がある。一口に「意識」と呼ぶが、整理すると「唯識」の瞑想実践において分かったことは、「表層領域」「深層領域」「最深層領域」とがある。浅い意識から深い意識まで、様々な領域があると、図絵で示している。
五本の指は、「眼・耳・鼻・舌・身(ゲン・ジ・ビ・ゼッ・シン)」をあらわす。いわゆる外界を認識する五つの感覚器官である。「図絵(2)」では、五つの感覚器官に相応するものとして「五感」があり、「観る・聴く・嗅ぐ・味わう・形に触れる」という感覚的認識を記した。人間の認識(識)は感覚的把握から始まる。これらの五感は「前五識」とよばれる識別能力である。次に「意」がくる。「意」は感覚の次にくる六番目の識別能力であるから「第六識」といわれる。「意」は「おもい」である。通常「意」を加えて人間の識別器官は「眼耳鼻舌身意」という六つの識をいう。認識の基盤である五つの感覚能力で把握されたものを第六番目の「意」は綜合判断する。感覚に異常があれば、綜合判断においても狂ってくる。あるいはまた、感覚だけにコントロールされてしまうならば、これも、人間全体として問題が生じ、動物に似てくる。綜合判断する「意」は、厳密に言うと人間的理性で、人間的意識のことである。「意」「意識」は、「図絵(2)」では、足指の根の下のところ、体重をかけるところあたりに「知・情・意」という能力を記入した。そしてこの「意」、意識的「知情意」(ちじょうい)をもって私達は通常の人間的行動、社会的営みをしている。
ここで問題となるのは、通常の精神的営みは「意識の表層領域」のもので終始しているとの反省である。つまり私という全体的人間は浅い領域と深い領域とが分裂している場合が多く、自分の生活と実存の深浅の統一がなされていない。パウロがローマ書で言うように、自己の中にはっきり分裂というのがある。さらなる深層には、いのちの根源の領域のあることを述べている。この自覚は、訓練・修行が必要である。
「図絵(3)」は、唯識思想を図示している。上から下へ、前六識、意識、末那識、阿頼耶識とある。そして究極のあちらの世界へという心の一番底にまで内面降下する。瞑想修行者たちは、この心の深みへの道行きを、プロセスを踏みながら、自己の心身の清めをなしながら、降っていく。ユイというのは、ただこれだけのonlyの『唯』であり、シキというのは、認識の『識』である。唯識は「唯、識だけがある」と見なして内面降下を徹底する。ヨーガ思想からの理論である。
「図絵(4)」は『大乗起信論』が教える、意識が『内面くだり』していくことの説明である。唯識思想にもとづいた大乗仏教の根本的な方向性・枠組みを教えるもので、心の深層景色、心の深層への内面降下が教えられている。具体的に『止』と『観』という方法で実践してゆく。上から、読み方は、『業繋苦相』(ごうけっくそう)、『起業相』(きごっそう)、『計名字相』(けみょうじそう)、『執取相』(しゅうしゅそう)、『相続相』(そうぞくそう)、『知相』(ちそう)、『見相』(けんそう)、『業相』(ごっそう)という8つの層(相)がある。

そうすると、キリスト者が信仰把握する場合、意識の表層領域から始まるが、深層の『魂の叫び(うめき)』に応えていくためには、深層意識での把握・理解を得るにはどうすればよいかは、仏道から学ぶことができるだろう。この仏道の説くプロセスに触発されて、キリスト教的に読み直そうとする際に、「ヘシュカスム・静寂主義(止観主義)」といわれている「ビザンチンの霊性」に出会うであろう。

2 「大乗起信論」の霊性とキリスト教東方の叡智
(1) 「足の裏のマンダラ」と書かれた絵を示した。これは『大乗起信論』(だいじょうきしんろん)を読んで、自分なりに図示したものである。『大乗起信論』というのは、大乗仏教であるなら、それが禅宗であれ、念仏宗であれ、天台比叡山であれ、みんな大乗仏教であるから、それらの根っこにある仏道的見方の基本的姿勢が書いてある。最終的に出来上がったのが、西暦500〜600年といわれるので、聖ベネディクトが西方修道制を開始した時代に符合する。奇しくも大乗仏教体系化の大きな潮流(大乗仏教)時代と符合する。

ちなみに、ベネディクトの「戒律」第四章には、次の一節がある。「つねづね自分の生活上の行いに、監視の目を向けていること。神はどこにおいても、自分を見ておられるものと確信すること」(48〜49番)と。神の下で「自分がどうであるか」と、心の動きを監視しなさい、と。こういう心の姿勢は内面において神に向かうための規律である。私の主宰している「キリスト者のための内観瞑想」もこういう心の姿勢を育てようとしている。聖ベネディクトの源流であるギリシャ教父たちは、「プロソケー」、あるいは「ネプシス」といった言葉をたびたびつかう。意味は「自分を監視すること。用心すること」である。表面的に反省するだけではなくて、もっと深く徹底して、自分の知情意の立ち振る舞い(行動、言動、感情の動き)の根っ子に何があるか、そういったことを監視する、注意する、目覚めていく、そういう心の態度形成を目指しているのが、プロソケー、ネプシスという心の清めの姿勢である。

(2)「足の裏のマンダラ絵」(4)の、一番上は「覚っていない状態。暗い迷いの生き方」「不覚」である。そして一番下は、「覚り、目覚めているということ、悟り、覚」である。その間に九つの段階(相・層)がある。一番上から下へ『業繋苦相』(ごうけっくそう)、『起業相』(きごっそう)、『計名字相』(けみょうじそう)、『執取相』(しゅうしゅそう)、『相続相』(そうぞくそう)、『智相』(ちそう)。あとは、『境界相』(きょうかいそう)の『見相』(けんそう)、『無明業相』(むみょうごっそう)と下っていく。最後の三つは私たちが一生修行してもほとんど辿り着けない最深層世界である。日常の生活は、とりわけ上の三つの状態において、それらを行っているが、概念知・差別相による理解・把握であるといえよう。心のなかにある「我」や「欲」を清めてゆくには、意識の層を下降し、清めてゆかねばならない。意識を「上から下へ、・・・」と下ってゆく修行をする。「下」ということは、観念的概念的把握から全人格的把握へということである。具体的には「心の内へ、内へ、内へ・・・」と内面へ意識を向けて行く。意識の表面からより一層「深い意識」へと下ってゆく。意識の基にどういう自分の穢れ、執着があるのだろうか。自己の意識の根を発見していこうとする修行である。

(3) その具体的なやり方として、『天台小止観』(てんだいしょうしかん 岩波文庫版にもある)で述べているように、『止』と『観』がある。『止』(シャマター)というのは、一切の頭の動きを止めて、静かになることである。いろんな動き、生活の流れを「止める」ということ。それは具体的に静かなところで座って、呼吸に集中する。深い呼吸法をしていきながら、自分の心の底に平安、静けさをもっていく。『観』(ヴィッパサナー)は、「観る」「観察する」ということである。意識の表層領域にとどまらず、深層領域にあっても、様々な動きがあり、外からの刺激や現象に反応的になっている自己がある。先ほどの『業繋苦相』から始まり、『起業相』、『計名字相』、『執取相』・・・へと内面下りをしても、たえず、「心が定まらず、反応して動きがある」。自分の心の中は他からの刺激に反応的であり、いかにたくさんの囚われや歪曲したもの、あるいは穢れたものや情欲に左右されているかを、正直に観る。もし、自分の中のことがはっきり観たならば、外の世界のもはっきり観える。

この「止と観」は、キリスト教では、「神の国の平和を、心・魂の一番底にまで持つ」ことを願う、「念祷」の中身と関わってくる。念祷中に、心身の乱れのない呼吸のうちに「神の前にとどまる」ことを、どのように自己のものにしていくのかという課題がある。現実は、思い(思索)、考え、想像や白昼夢、雑念に費やすことが多いが、それらは「意識」の深層に控えている自我執着心であるマナ識の支配下にあるので、神のことを思うのではなくて自己のことを思っている、という結論になる。

(4) 意識の表面を支配している『業繋苦相』(ごうけっくそう)というのは、文字から見ると、苦しみに繋がれて業にまみれている姿、とある。『四苦八苦』という言葉がある。四つの苦しみ、八つの苦しみ。「生老病死」という四つの避けることのできない「苦」。生きることの苦しさ。歳をとって老いていくこと、健康など様々な力がなえていくこと、それから体や心や魂の「病み」。さらに、「愛憎違順」という四つの「苦」。愛することや、憎むこと。一緒になることや、別れること。こうした人生の様々のはかなさ、悲しみ、苦しみ。それに縛られて生きているという現状のこと。そういう中でみんな叫んで生きている、泣いているという、こういう四苦八苦の状態を『業繋苦相』と言う。
そこからどのようにして私たちは解放されていくのか。それらの底にある姿として顕れてくるのが『起業相』(きごっそう)である。私たちが振舞うこと、生活すること、言葉を発すること、心の中で思うこと、そういう中のことにも全部、我執と欲望の罪の影響下にある。『業』が入っていて、そしてその『業』の結果、『業繋苦相』という苦しい生き方があるが、「起業相」というのは、その「業繋苦相」を支えていて、社会を支配している価値観に巧みに汚染し、人間の流されるありようで、四苦八苦の「根っこ」である。自己を反省すると、『業繋苦相』にまみれた姿を認めるのだが、その「根っこ」には本人が選んだのではないが、人間性に悪への傾きというものが備わっていて、小さな時からそういうことを学んで生きてきている、そういうのが「起業相」と呼んだ。その実りとして世の中に様々な四苦八苦があることを見る。
そのような人間の姿は、さらに掘り下げてみると『計名字相』(けみょうじそう)と名づけられる姿が見えてくる。これは人間が「知恵」を持っているが故であるとする。どうして私たちは罪深く生きていくのか。根っこに何があるのか。ということで、これを簡単にいうと『分別知』のために苦悩がある。分別知は区別・分別・差別をさせる。知恵はこうして物事を分けて考える。『計』とは「はからう」ことであり、あれこれ頭の中で計る。計画の『計』である。私たちはそのように生きている。各自が計画を立てて生きているし、様々な計らいをしているから、そこに、「神の計画」が入り込む余地がないほどである。次に『名』というのはレッテルをつけること。区別・差別・分別して、それぞれに「名」をつける。それによりそれぞれの特徴を現し、分断する。自己を主張するために、他を排除し、差別化する。科学や学問は、そうして「進歩」してきた。しかし、そもそもそういう生き方が、人間を不自由にし、不幸にしているんだという。みんな同じ人として平等ではないか、そういう原点に戻っていこう、そういう目覚めに至ろうとの勧めである。
もう一つの根っこにあるものは、4つ目の『執取相』(しゅうしゅそう)。これは『欲』、『情念』と関係する。つまり、全て自分のものとして取り込んで生きていきたいという欲望がある。そういう心の動き、『執着』、『愛着』、『こだわり』が私たちの意識の深いところにある。そういうものが深層意識の中にある。ほとんど人間はこれに逆らうことが困難なほどだ。人間の自然的な本性に付着している性質のものである。5つ目の『相続相』(そうぞくそう)は、そうしたものを「私が選んだわけではない」「生きているということは、そういうことなんだ」ということである。これは社会の中に、文化の中に延々と続けられていって、そして遺伝子の中にも刻み込まれる。

これまで、「上から下へ、下へ・・・」、「内側へ、内側へ・・・」と意識の流れの方向性を述べたが、逆の意識の流れもある。つまり、下から上へ。意識の最深層から、表層方向へ湧き上がるかのような流れである。図絵「起信論とテレサ」の一番下に「三角の目」が描かれているが、いのちの根源に三位一体の神が人間存在を支えているので、この神から吹き出てくる流れがある。人間は神の像と似姿として、神のいのちの息を吹き込まれてあるので、これら意識図絵全体にも、神の息吹の影響に浸されている。この「足の裏のマンダラ」全体は、神ご自身の足の裏の置く場所である、とみれよう。(エゼキエルは「神の足の裏の置くべき場所としての神殿」を言う(43の7)。パウロは「我々は神の神殿であり、神の霊が我々に宿っている」と言う(Tコリント3の16)という。

(5)以上の仏教的な教説をキリスト教的に読む枠組みを確認してみよう。
神は人間を「神の像として、また、似姿」(創世記1の26)として創った。人祖アダムとエバが罪を犯した後、神・御父は人類を「再創造」するために、神・御子を聖母マリアを通して人と成らせ、十字架において罪を取り除いた。その御子・イエス・キリストの救いの恵みに預かるものとして「イエスの名によって洗礼を受けて」、人は新しくされた。これは神の再創造であり、秘蹟的に存在の一番深いところに神が内在するようになった。アダムにおいて失った神の似姿が、キリストの贖いの力により、キリストに従うことにより回復した訳である。存在の最深層から新しくされたしておられるわけだから、神の力が、人間の最深層である下から上へ上へと吹いてくるものがある。下から上へ吹いてくる、あるいは湧き上がってくるものがある。
 下から(深層から)上へと湧き上がってくる動きの流れがある一方、こうした神の教えを知り、人間側からの努力として、上から(意識の表面から)下への動き、つまり、内面降下の流れがある。これは人間側の神の恵みに応答する努力的営みである。「内側へ、内側へ・・・」と、「止」と「観」による修行的な努力は人間の意識と存在の「浄化」「清め」の営みである。たぶんに自力的な努力ではある。その「清め」の度合いに従って、「内なる神の息吹」が「上へ、上へ(意識の届くところまで)・・・」と吹き上がっり易くなる。
人間の自覚的努力で入っていく(下へ、内へ)という能動的なことと、内面の最奥の向こう側から出てくる、湧き上がってくるという受動的なこと、この両方の動きの中で私たちの信仰生活の営み、また修行生活の営みがある。キリスト教的修行論として東方教父たち(あるいは聖師父たち)の著作の中に、内面くだりと、内面からの神の風の上昇風を見出すことが出来るだろう。


第二章 「入?垂手」(十牛図・第十)と「尋牛」(十牛図・第一)
次に大乗仏教の枠組みにある禅宗では真理(真如)探求をどのように述べているかを、「禅の十牛図」を取り上げてみる。心の内面描写とその修行過程については、人間の普遍的で共通な修行面があるので、我々の心の内なる旅を考えるヒントとなるだろう。「禅の十牛図」の正しい解説とかではなくて、それを自己の信仰を深めるため、ヒントとして把握しなおすという試みである。巻末の図絵を参照。

1 究極への旅とその成就 
 まずは、図絵を眺めながら、読み方と簡単な説明を。
1『尋牛』(じんぎゅう):牛を探す。少年は失った牛をキョロキョロと外に探している。
2『見跡』(けんせき):逃げた牛の足跡を見出す。方向を見つける。
3『見牛』(けんぎゅう):野生化した牛を見つける。この牛はなにを意味するか。
4『得牛』(とくぎゅう):牛を捕らえようとして頑張っている。
5『牧牛』(ぼくぎゅう):牛を飼いならした。
6『騎牛帰家』(きぎゅうきけ):牛に乗って、牛に導かれて、家に帰る。
7『忘牛存人』(ぼうぎゅうそんにん):もう牛のことも忘れて「独り」いる。
8『人牛倶忘』(にんぎゅうぐぼう):私も牛も消えている。無、超越。究極の悟り。
9『返本還源』(へんぽんげんげん):源に帰る。元に返る。大自然への感受性。
10『入?垂手』(にってんすいしゅ):手を下げて再び現実社会に返って来る。

この『十牛図』は千年程前に中国で、禅修行する初心者達に作られたものである。「悟り」には「頓悟」(とんご)と「漸悟」(ぜんご)の二種類ある。「頓悟」(とんご)の『頓』というのは、たちまち、すぐに、という意味である。薬の頓服の「頓」ある。「悟り」という文字は「覚り」とも書けるように、「目覚める」ということである。目覚めるならば、見えなかったことが見えるようになる。気づかなかったことが気づくようになる。もう一つの「悟り」は「漸悟」(ぜんご)という。「漸」とは「ようやく、だんだんと進む」の意味である。プロセスを経て、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ進んでいく。覚っていない(不覚の状態)から、指導を得て、道順を経ていくことによって、理解を深めていくことができる。そういう「悟り」の方法を「漸悟」という。凡人は時間と空間の中で少しずつ解って、気づいて、成長していくという道をとる。そこに人間性の成長・進化の過程があるので、こういう『十牛図』をみると解りやすい。
よく見ると10枚のうち、最初の5枚は2文字の漢字である。後の後半5枚は4文字の熟語になっている。後半の四文字熟語のものは禅独特の雰囲気があるので、今回は省略する。1〜5までの、失った牛を探し求めて旅に出て、牛を発見し自分のものにして仲良くして歩くという、ところまでをがめてみたい。

2 十牛図と内観
宗教的生には、実践・修行(アセティカ)ということが必要である。それに関しては、先ほど述べたごとく、「頓悟」と「漸悟」があるといったが、この二方向の修行は、相互に関連して進んでいくものであるから、それらの「合力」の方向で展開する。『十牛図』を、単なる水平的・段階的としてではなくて、垂直的にも把握せねばならない。十枚の図絵、それぞれのステップの中でも深い内面に降りていく、ということが必要とされる。そして、直線的・段階的な一回だけのプロセスではなくて、円環的帰還的に十枚の絵がグルグルと回る、全体も「円環運動・サイクル」として進行する。1つ目の『尋牛』(じんぎゅう)という絵で若者が旅に出る。そして最後の10番目の『入?垂手』(にってんすいしゅ)では、布袋さんのようなお腹の大きい人がいる。実は、1番目の若者が修行をして、この10番目の布袋さんとなる。道の探求を成就したこの老人(布袋さん)を見ている少年がいる。この少年がまた1番目の絵に登場する。このように、人から人へグルグルと回っていく。生き方が伝達・伝承されていく。一人一人、個人の中でもこの「円環運動」が数年のサイクルで繰り返されて、かつ、上昇していく。

「入?(ニッテン)」の「?」とは「店」の意味で、深谷幽仙な人里はなれたところから、(店のある)街に入るということ。「?」を「酒を飲ませる店」と解釈する人もいる。酒屋には、様々な人が寄って来、人は構えもなく本心を出して楽しく集う。上司も部下も本心を出せる場でもあろう。ここでは、固い心の殻が外れて、良し悪しを超え、難しい理屈を超え、本音が語られる。道をたずねて長い求道をしてきた修道者も、いまや様々な境界線が消えて、自由自在である。そういう境涯で入?する。あるいは「戻っていく」「降っていく」。
「垂手」とは「挙手」の反対で、手を自然体に下ろしている様である。自己主張のしるしである「挙手」の構えではない。「わしがわしがの我がない」。垂手の手のひらを外に向ければ「迎え」「招き」のポーズでもある。騒がしい華美な入村ではなくて、静かで音なしに現実への浸透であろう。気がつけばそこに彼がいたという風な。この絵では、少年が彼を見つけて、何かを尋ねているような絵である。少年は、少し変わった素朴な老人を不思議がりもし、興味もあり、惹きつけられるものを感じているようだ。「笑った顔」の老人に引き寄せられた少年は、何を感じたであろうか。少年は、「おじいさん、どこに住んでいるの? 今日は魚が釣れましたか?」とか尋ねるているかのようである。老人の姿をした人物は、説法をするために入村するわけではない。現実の世・社会・他者に自己存在の身をさらしているのである。おじいさんは「坊や、ついておいで」と誘ったとする。少年は、彼から何を教えられたか、述べられていないが、ついていき、そこに泊まるとする。翌日、少年は第一図に登場している。(ヨハネ福音1章35〜42を参照)

3 東方の教父の叡智に回帰してみると。
 十牛図では、真如への旅(修行)には、プロセスがあることを教えている。人間存在を静止した姿として運命論的にみるのではなくて、「旅する人」「生成変化」の道を歩むものとして把握している。過程、プロセスを歩む。聖書に戻り、それへの忠実な観想(テオリア)を行ったギリシア教父たちは、どう把握していただろうか。

(1)人間の創造物語を聖書全体から見ること。創世記における人間創造を、その霊的意味を神の霊に照らされて把握すること。神の第二のペルソナ・御子キリストによる、受難・死・復活という再創造、黙示録における世の終末、という全部の枠組みで、「神の隠された神秘」を観想する。
(2)聖書は聖霊によって書かれた啓示であるから、聖霊の照らしによって解釈する必要があること。それには、「読者」の精神は聖霊に照らされ清められていることが前提となる。
(3)ギリシア教父の人間観。人間は神の像と似姿として創造されている。しかし、人間は神の戒めにそむいてしまう(堕罪)。神の人間への愛は第二のペルソナである神の子を人とならせて、神との関係を回復させた。こうして人間の完成と宇宙の完成をする。この生成過程全体が創造であり、救済であり、神の経綸であること。
(4)ニユッサのグレゴリオスの場合は、人間の神化へと動きを突き動かすエネルギーとして「エペクターシス」を述べる。それは人間の根源的欲求は神から与えらているものであり、人間の自由なる「協働」によって、神の望む人間へと再創造されていく、
(5)証聖者マクシモスの人間把握。「存在するもの」としての人間は、その存在の根拠として「存在そのものである神」にあり、それゆえ、人間はその究極的存在者に近づくべく「より善き存在するもの」へとの欲求も与えれている。人間の目的は「究極のよき存在」へと生成の過程に向けられている。
(6)グレゴリオス・パラマスは、以上の教父たちの教説を総合的に受け継ぎつつ、人間の「神化」「変容」は、神のエネルゲイア(力)によるものであることを、解き明かした。

こうした人間把握は、西方教会のややもすると静止的で、合理主義的で知的理解に陥りやすい傾向を、再び、全人格的な聖書的な理解へと戻してくれる。そして、我々の課題である、仏教的修行との対話に近づける。なぜなら、双方とも、「修行的」であり、それゆえ「究極」への旅を行っており、そこには人間の共通した、内なる世界の実践的経験が見られる。また、人間を生成過程にあるもの、変わりうるものであることを、描く。人間のうちには「仏性」「神性」がはらまれていて、自己超越してゆけることを説いている。


第三章 「尋牛」(第一図絵) 感覚的な生き方。
1 内なる仏性、神性を捜し求めて 
 十枚目の図絵で、老人と出合った少年は、実は第一図絵に登場する。心の旅は一直線的な進みではない。円環的にすすむ。円環的だが、上昇的でもある。第一図絵は「尋牛」と名づけられている。牛を尋ねて、ということであるが、「牛」とは何ぞや?他の牧牛図では4枚、6枚、8枚、12枚とかがあるが、10枚のものがポピュラーである。ある図では、『尋牛』の前に『失牛』(しつぎゅう)という絵がくるものもある。元々私たちが持っていた真如・悟り・真実を失ってしまい、もう一度その牛を見出すという、ストーリーで描かれている。自らの中に「牛」「仏性」があり、外に逃げたわけではないが、内在する仏性に気づかなくなり、外に探し求める、との説明もある。また、他の図では、『黒牛』だったのが『白牛』に変容するというストーリーのものもある。黒牛である私たちが色んな修行を経て『白牛』になっていくプロセスの絵として描かれている。

「心の旅」が始まるには何かの「発心」(ほっしん)があった。かつては真実(神)に背を向けていたが、真実の目覚めへの旅である。そしてその目覚めは、真如(神)が実に自分の中におられることの経験への旅立ちである。「足裏のマンダラ」で、『不覚』(ふかく)と『本覚』を表したが、本当の目覚めに背を向けた生き方、つまり、真実(神)に背を向けた状態(「不覚」ないし「背覚」(はいかく))から究極の真実(「本覚」)に向かっての旅である。本覚は、知性的な気づき・理解に終わるのではなくて、「本当に私の中に真理(キリスト)がいる」という「真理(神)との一致」体験、そういうものを求めている。実はそれが人間の根源的な宗教的欲求である。根源的な宗教的欲求として究極的な真理(神)と一つになりたい。概念的な概念知、観念的知識による真理(神)についての知識ではなくて、一人一人の実存的な実体験というのを求めている。それは全人格的なものである。

キリスト教的に見ると、この失った牛、本来の自分ということはなにか?本来の自分というのは、神から、神の像を刻まれ神の似姿として創造された。けれどもいろんな歴史の流れ、社会の中で、また様々な価値観の中で、また個人の罪のために、神に背を向けてしまう。それゆえ「黒牛」になってしまた。御子キリストが来られて、御父の子として回復するように再創造する。従ってこの1番目の『尋牛』は、本来の自己、神の子としての自己を求めての旅が始まった様子、「発心」する、としてこの絵を受け止める。私たちも、かつてはキリストを知らない者であった。しかしキリストの恵みによって、キリストの満ち溢れる栄光の中に与るようになった、というプロセスを歩むわけである。

2 「牛とは何ぞや」。
「牛とはなんぞや?」。「我エゴ」ではなくて、「自己セルフ」に近いが、「自己セルフ」をもっと超えて、仏教の世界では「真我」とか「大我」と言う。普段持っているエゴは小さなエゴだ。とてつもない大きな我、そういう方向に行こうとする。私たちの持っているエゴは小さなエゴであるが、真の我「真我」に目覚めていくことが促されている。こうした真我への欲求は、神が人を創った時に、ご自分の像と似姿として創られ、ご自分の息吹・神の霊を吹き込んで、それを生きたものとした。それがアダムの違反により失ってしまう。神の人への愛によって、キリストの死と復活により、その本来の姿が回復されたのである。だから、キリスト者の場合、この「神の我」「神の想い」、「キリストの我」「キリストの想い」にまで広がっていこうとする。

けれど、『業繋苦相』(ごうけっくそう)『起業相』(きごっそう)『計名字相』(けみょうじそう)『執取相』(しゅうしゅそう)とかが、真実の前にカーテンや垂れ幕がいっぱいあり、一番奥の至聖所の中におられる神が見えなくなっている。そのことのために自己意識の清めとともに内面下りをしていく。その際様々な知性と感覚の清め、それが「内観」と「呼吸法」の修行である。1番目の『尋牛』はだいたいこのようなテーマである。「発心」して道を歩み始めること。そ自分の中に神の似姿としての像が刻まれていることを信じて、それを回復してゆくこと、「神性」に与っていくということ。そしてそこに召されているとの信仰と希望で歩み始めることである。「尋牛」と呼ばれている少年か青年は、「心の内なる旅」の緒に就いたばかりである。彼は第十図絵の「老賢者」へと向いつつ。彼はいつか、「老賢者」へと「変容」されてゆく。

3 平櫛田中の『尋牛』像。
岡山県井原市の出身で『平櫛田中(ひらくしでんちゅう)』という文化勲章受賞の彫刻師がいた。平櫛田中が亡くなったのは107歳の時であった。彼は老人の彫り物をたくさん彫っている。その中に「尋牛」と題する像がある。ヒゲを生やした70〜80歳位の老人が、右手に木の枝を持って颯爽と前方を向いて、しっかりとした腰で、足も大地にしっかりと踏みつけ、とても力動感のある像である。『尋牛』というのは、少年や青年たちのことを想像するが、平櫛田中は、70〜80歳の老人が「これから私は目標に向かっていくぞー!」というような雰囲気の彫り物を作った。その平櫛田中が言うには、「70や80歳はまだ鼻たれ坊主」と言ったそうである。この『尋牛』は『十牛図』からインスピレーションを得て作ったものだと思うが、尋牛するのは若いときのことだけではなくて、いつも尋牛しつつの人生であると考えさせられる。
その絵をみてカッパドギアの三教父、ニッサの聖グレゴリオスの「エペクターシス」というキーワードを思い出した。モーセの後に従って観想の生き方をしようとする者は、どういう精神で生きていくのかを主著『モーセの生涯』において詳しく書いている。田中の「尋牛」と重なり合った。ギリシャ語の「エペクターシス」はパウロのフィリップ書3章12〜16節から導き出された神に向かう者の姿勢を現している。パウロは「一生懸命に競技場で競争するかのように走ってきた。しかし、まだ捉まえたわけでもない。捉えようとして、全身全霊で前にのめり出して目標に向かって、前に進んで行こうとしている」という。このような精神的な姿勢のことをエペクターシスという。ニッサの聖グレゴリオスは「もしあなたたちが神に従っていこうとするならば、そうしたエペクターシスの気持ちがなかったら、あとは落下するだけだ」と教える。もちろん恵みによってでなければ上昇できないが、上へ、上へと登って行こうとする努力、その心を止めた時には、後は人間として当然落下していくだけだと。
テイヤール・ド・シャルダン(古生物学者・進化論者)は、主著『現象としての人間』の中で次のようなことを述べる。気の長くなるほどの宇宙進化の中で、生命が誕生し、植物・動物への進化が生じた。やがて精神の備えた存在が顕れ、いよいよ人間誕生の直前の頃を描きながら、彼はいささか興奮しながら言う。全部で4部からなる本であるが、その第3部の最後の箇所に、いよいよ人間精神が表れて来る段で、こう書く。この理性的な魂が一旦この宇宙の中に出現してくるならば、この魂には宇宙の完成か失敗かという責任も与えられる。そして、この魂がオメガであるキリストに向かうことを止めるのであれば、この進化は失敗、破壊に終わるだろう、と。シャルダンもカッパドギアの三教父、ニッサの聖グレゴリオスから黙想して、常に前方へ、オメガ(究極点なるキリスト)へと向かわなければ、人類の進化は失敗に終わるし、それは宇宙創造の失敗となると言う。これは地球を数十個も破壊することの出来る原子爆弾を所有するにいたった人類にとって、神かそれに逆らうサタンへの選択か、の責任があることにもなる。

この『尋牛』の少年はキョロキョロして、真実の牛とは何か、それを求めて旅をしている。やがて、第二の「見跡」で牛の足跡を見つける。私たちにとっての足跡は「聖書の言葉」を読むことで、足跡を見出す。神でありながらマリアを通して、私たちと同じ肉をお取りになったナザレのイエス・キリストの生き方が足跡である。福音、また聖書全体が私たちにとって足跡である。

4 ことばに依ることと、ことばから離れること 
  真実・究極への旅には、感覚の清め、あるいは感覚から離れるという要素があり、言葉からも離れるという促しに出会う。口で述べられる「言葉」を聴いて理解すること以上に、言葉が老師の身についており(受肉と表現すると良いかもしれない)、彼の「存在自体」が「言葉」となり、沈黙していても、少年にメッセージを語っている。究極への旅には、そういう感性が必要である。「道を説く」ということは、具体的な道を生きる人の「在り様」を通してにじみ出てくる性質のものだろう。その人の「霊のあふれ」として出てくるものであろう。そして、それに出合ったもの(聴く側)も、全身全霊で受け止めて、やはり全人格的に主体的・自主的に深めていく類のことであろう。東洋的感性を持つ人々はこうした了解をする。
 真理には「依言」、つまり、言葉を用いて教え領域と同時に、「離言」する性質がある(大乗起信論)。つまり、発された「言葉の内実を問う」領域がある。言葉を発する人の「生き様・在り様」のあふれの言葉からとしての「語り」を聞こうとする。そういう風土がある。つまり、メッセージを受け取る場合には、言葉に依存する領域と言葉を離れた(離言)領域があり、その双方によって受容される。そして、それは「存在」や「生き様」に記されている言葉(ダーバール)で、真実性を語る。

 少年は、かってどこかで不思議な老人とであっていた(第十枚目の絵)。「老賢者」のような老人か仙人の生き様を通して、未熟ながらも自己を超出する人物との出会いがあって、それへの憧れが動き始める。少年の深層には「より善き存在」への憧れが生来的に刻印されており、老賢者を求めての探求が始まる。神の招きは、現実の中ですでに生じていた。具体的な「より善き生」をいきる人との出会いを契機として、それを無意識的に、あるいは自覚的に、一歩を踏み出すのである。

5 「意」による「外観」から「内観」へ
 しかし、彼は、景色や辺りをきょろきょろ捜している。自己の外に「牛」を捜し求めている。この図絵は「失牛」とも呼ばれて、本来あった「牛」(=「仏性」)は逃げてしまい、どこかで野生化してしまっている。きょろきょろする彼の目は、落ち着かず、心は定まらない。それらしき姿を見出そうとして、外界に集中して牛を捜す。また、様々な外界の「音」に神経質になり、反応的である。五感を凝らし、外界を捜す。意識・精神は「外観」的である。まだ、自己の内面への集中ということを知らない。自己の内側にこそ捜すに至るまで旅が続く。
「感覚」も神から創られたものであるから、悪しきものではない。生きてゆくうえに大事な身体的機能である。眼・耳・鼻・舌・身の五官は、それぞれ視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という感覚によって外界を識別する。これらの識別能力を「前五識」と呼び、迷いの相における認識であるとざれている。これらを総合判断する第六番目の識別能力を「意」あるいは、「第六識」と呼ぶ。

6 内観現場での「尋牛」(第一図絵)
自分の内面に向き合おうとして内観者は、屏風の中で、身調べを始める。しかし、初心者は、簡単な「相手」を定めた「時系列」の記憶を想起することすら困難である。雑念の大津波であろう。記憶の焦点絞りが出来るようになったとしても「三項目」という枠にさえ集中できない。相手がどう言ったか、相手が自分にしたことなど、と絶えず自己に向わず、他者の事柄に気が散って行く。出てきた記憶から、直ちにほぼ自動的に他者を分析・詮索・自己弁護・批判している自己がある。それほど、外界の刺激に対して、反応的になっている自己がある。つまり、内観どころか、始終「外観」する自己の姿である。

7 ギリシア教父の理解では。
もともとは神の像と似姿に創造された人間であるが、神の言葉よりも自分の考えと意志を選んだために、その像にはかげりを生じ、似姿は失ってしまった。あのエデンの園での「神の子」としての栄光を再び回復するべく、旅立つのである。空洞化した自己の実存があり、何によっても満たされない自己があり、心を満たすものは何かと尋ね求める旅である。内面の分裂を抱えた自己があり、自己を再統合してくれるものは何であるのかとの旅である。魂の奥底からの平安を求めての旅である。

教父たちも、即物的(被造的)な感覚領域から離脱すべきことをいうが、感覚は、清められて「霊的な感覚」への転生浄化することを言う。うっとりさせる神的メロディ、瞑想へ誘い神を感じさせる香り・・・花嫁が花婿を恋慕して少しく後姿を見る際のときめき(雅歌)など。かくして、五感にもいろいろの程度と質の差がある。それは感覚それ自体にあるというよりも、感覚を使用する人間側の矩に従うと考えられている。

 
第四章 「見跡」(第二図絵)と「見牛」(第三図絵)
T「見跡」
1 他者から学ぶ
 第二の「見跡」で、少年は逃げた牛の足跡を見つける。先人たちの歩んだ道を発見し、その跡をたどる。老師の指導を受けるとか、古典から学ぶとかを言う。心の内なる旅は、迷いの多い道でもある。精神的に未熟な者が深い自己理解にいたるには、どうしても指導者からの案内を受け、知性的に学ぶことが必要である。誰の指導を受け、どのような学びをおこなったか、は大切な事柄である。心の探求には師匠が必要であるとともに、読書が必要である。我々にとっても、聖書や教父の著作の読書が必要である。
 「後姿に従う」ことの重要さ。「誰の足跡に着いていくのか」ということと、それからその「指導者」の大切さがある。禅の世界では「正師を持て」と言う。自分を導く、自分の内的体験を指導してくれる老師、正師について行くのである。「師匠」「師」のもとに従うことが、2番目の「見跡(けんせき)」の大事なポイントになる。

2 「指月の月」
「指月の月」という言葉がある。「ほら、お月さんを見なさい。美しいお月さんでしょう。」とひとさし指でお月さんを指していて、その指の示す方向にお月さんがある。美しい月を見なくてはならない。指で指しているあちらを見なくてはならない。しかし、赤ん坊は月を指しているパパやママの指を見る。
たとえば、聖書を勉強しながら、本当に言わんとする事柄、御父のところに至らないということもある。イエスいう。「お前たちはモーセの律法を研究しているが、御父の心を解っていない」と。書かれている文字の勉強にとどまることのないように。理性的理解だけではない、別の要素、「合掌心」と呼んだが、敬謙な心というか、ピエタスというか、そういう「神を畏れる心」で向こうを見なければならない。

3 見跡 イエスの後ろから従う
道を往くものは、先人の足跡を発見して、師の指導を得て、後ろからついてゆくのである。イエスに従う場合は、いかがであろうか。神の子・イエス・キリストと出会うめぐみを頂いた場合、その人間に謙られた神の愛に触れて感謝するのである。イエスの愛と出会って、イエスは「友」となってくださるのであるが、それでもイエスは神の第二のペルソナであることを忘れてはならない。そうすると、イエスに従うというのは、イエスと並列に並んで仲良く恋人のように手をつないでゆくわけではない。確かにイエスは「くびきを共」にしてくださるが、それはイエスの謙り故であり、私の側からのイエスへの近づき方ではない。イエスに従うというのは、神の第二のペルソナであるお方の「あと」に従うのである。イエスの後ろ姿を「見ながら」、後ろに従うのである。福音書において「見跡」したものは、イエスの横に並んで歩むわけではない。イエスの「後ろに従う」のである。イエスの言葉によると、「自分の十字架を背負って、私に従え」とある。これはイエス・キリストへの神性についての信仰宣言と関係する。つまり、神の子はマリアを通して人となって、私たちと同じ人性をとっているが、それは人類の罪のあがないのためであるが、依然として神の第二のペルソナであるのだから、私たちはその神であるイエスの横に並んで歩む筋合いにはない。そういう要求を超越者に対して出来ない。あくまで、後ろから従うことしかできない。ただ、神の子・イエス・キリストの方から、そのへりくだりの愛のゆえに、私の横に来てくださる恵みの場合は別であるが。
 ニュッサの聖グレゴリオスは、モーセはシナイ山で神からご自分を示されたとき、神は後ろ姿だけを示し、モーセが神に従うときに、神の後ろからついて行く、と説教している。「見跡」するものは、この「後ろから従う(アコールディア)」という神秘を観想することは役に立つであろう。

4 内観での見跡
 「見跡」ということを、内観現場では、違った事情で、行う。悪戦苦闘しながらも、様々な他者へのこだわりがあったとしても、淡々と、時系列による身調べを、三項目を頼りにして、両親を始め、他者に対する自己を調べる。そのうちに、自己の態度(自己の他者への反応パターン)に気づくことがあり、改めなければならない自己の姿が浮かび上がってくる。さらに、嫌い、受け入れていない両親や他者を、どのように受け入れなおすかを、一層深い眺めから考察する。こうした内観現場での営みは「見跡」していることになる。

U 「見牛」
1「見牛」「見性」「悟り」
『尋牛』(じんぎゅう)で「心の内なる旅」が始まり、やがて旅の「方向性」を見つけて、歩み始めるのが『見跡』(けんせき)である。いよいよ3番目の『見牛』(けんぎゅう)になる。逃げていった、暴れ牛となってしまった牛、野生化してしまった牛を見出す。それは制御をなくした自分の狂った姿である。本来は『白牛』なのに、つまり、心の中に三位一体の神は現存し続けているのだけれど、いつの間にかそれが見えなくなってしまった。知恵と欲望に支配されて、気ままに自由に動いていく(本当は不自由な姿なのだが)ことによって、いつの間にか暴れ牛になってしまった。俺が俺がという「我」の生き方・・・。ある解説書には、この『見牛』の「見」は「見性」であるという。「見性」とはつまり一種の「悟り」だと書いてある。ありのままの現状の自分の姿に、客観的に気づいたから、たとえ森の中に逃げてしまった暴れ牛のお尻かシッポだけを見たとしても、それは「悟り」だと言っている。内観での「悟り」は、直感的・知的な素晴らしいことを「知った、見た、気づいでの」というよりも、浄土系の「悟り・自覚」であるから、「自分は救いがたき黒牛(罪悪深重の煩悩凡夫)である」という「気づき・自覚」をいう。自分の過去を振り返って、具体的・客観的事実として、はっきりした出来事をみて、「本当に自分はエゴと我と欲にまみれた、どうしようもない、救われていない自分なんだ」という深い気づき、そしてそれを認めるということになる。これが内観的「見牛」である。これは神からの照らしという恵みである。

内観同行者・面接者は内観者の話しを聞きながら、心底から自己の煩悩ぶりに向き合ったかどうかを、注意深くに聞く。それも口先で了解しているか、心底味わっているかを見極める。話し方や声や涙や態度に自ずから表れてくるものである。内観者は、自己の煩悩凡夫ぶり、罪悪深重ぶりをどこまで、深く自覚できたかを、瞑目しながら同行面接者は心の耳で聴く。本物であれば態度に表れてくる。面接中の態度、廊下を歩くときの姿勢、食事中の態度などに出てくる。単なる「気づきawerness」でなくて、「態度atitude」に表れてくる。人格変容に至るには「気づき」だけでは足りない。「態度」変化が求められている。

『見牛』するのは、牛のシッポだけかもしれないが、見つけるということは、自分の罪を自覚した、自分が野生化し暴れ牛であるのを見たということになる。この少年は森の中へ逃げていってしまって野生化した牛(自己の姿)に気づいた。それも「牛」(より深い自己)が、つまり暴れ牛の私が「モーッ!」と鳴いたことによって、この少年が「あ!牛だ」と気づく。それは動物的な衝動(飲食、性欲、暴力)で振舞っている場面とか、他を思うままに支配したくて凶暴化した姿とかである。それは暴れ牛の私が「モーッ!」と鳴いている場面である。そういう場面こそ、正直に眺めることが大事である。支配欲、自己中心的な欲望、権力志向、感情のコントロールのできなさ・・・これらが生き方の底に流れていて、そういう動物的な部分を看破しなければ深い内観とはいえない。
暴れ牛の自己に気づかされるということは恵み、見牛である。「そうであってはならない!」という生き方をしている自分がいたということ、それを見た、そして知るということは、これは「恵み」「悟り」「見牛」であり、一種の「見性」である。正直に認めるところに「謙遜」がある。黒牛である自分、暴れ牛である自分、角を出して怒りを持つ自分、そういう自分がいると気づくことは「恵み」であり「覚(カク)」である。「内観」はこのような霊性である。「内観」では、「自分の黒牛」さ加減を知るという「謙虚さ」、これがひとつの「見性」、「悟り」である。黒牛である「自覚」の度合いが「悟り」の度合い。第三図絵は、まだまだ表面的な「見性」であって、もっと底にまで染み付いた「黒牛」というのがあり、神の子・イエスが十字架上で苦しみ、死んでゆかねばならなかったほどの人間の神への背反というのが在る。自分の中にある惨めさ、弱さ、傷ついている部分、我と欲、身勝手、そういう自分の姿はほんの一部分だと思う。根っこにはもっともっと頑固な自己中心的な私がいる。人間の意識と存在は、もっと深い領域から我執に染まっているものがある。

2 「うそと盗み」
自らの客観的姿を発見するために「うそと盗み」という課題で調べてもらう場合もある。幼い頃は、「お母さんにうそを言った」「先生に怒られるので、うそつきました」「盗み食いした」「お財布から金を取った」とか、そういう「うそと盗み」を思い出す。しかし、大人になり、対人関係や社会での仕事、立場上の態度を「嘘と盗み」をみた場合、深刻になる。自己の学びからのものでないものを自己の意見として発表するとか、他人の業績を拝借して自己の誉れとするとか、口先だけで実行の伴わない薄っぺらさとか、気を引くために他人を褒めて上手をいうとか、他人の心を盗むとか・・・・。知識や口から語られる言葉ではなくて、「生き様、後ろ姿そのものが何かを伝える」というものがなければ、「うそ」であり、そういう言葉で人の関心を取ろうとするのは「盗み」である。真実の「言葉」は「風に吹き飛ばされるような言葉」でなくて、力があり、活動しており、存在そのものであり、他に影響を及ぼすものであり、人を建て、倒し・・・そういう言葉をイエスご自身が語っておられた。なによりもイエスは神の言葉自身であった。十字架で苦しみ、死し、復活した。言葉と実際の生き方を自らの後姿でメッセージ出来るような様(さま)こそが誠である。
「うそと盗み」の身調べにより、深層において暴れ牛の自分が「モーッ!」と鳴いているのをみる。これは聖霊がさらに信仰を深化させるために、「うそ」で固めた生き方の岩盤の隙間から、風を吹かせる瞬間であろう。
 
第五章 「得牛」(第四図絵)と「牧牛」(第五図絵)
T 「得牛」 
1「得牛」=コントロールしたい欲求 
1 『見牛』をみたが、「それからどのようにしていきたいのか」というのが4番目の『得牛』(とくぎゅう)と5番目の『牧牛』(ぼくぎゅう)である。『見牛』の際に自己が『黒牛』であることに気づいた者が、その後にくるのは、他力本願的な念仏にすすむ。罪悪深重の煩悩凡夫の地獄行きの自己は、阿弥陀如来様の本願の御慈悲によって(他力本願)極楽往生できる、という信心念仏に伸展する。

キリスト者の場合「自分がいかに黒牛であるか」ということが解った後に、イエスの元に赦しと憐れみを祈りにいくという方向へすすむ。ここで「イエスの御名を呼ぶ祈り」について述べておく。イエスの御名を呼ぶことは『称名』である。『称名』(ギリシア語でエピクレーシス)というのは、叫ぶ・呼び求めるということである。ミサの最中に聖変化の時に、パンとぶどう酒の捧げ物の上に両手を差し伸べて、聖霊のくだりを祈るのを『エクピレーシス』という。パンとぶどう酒がキリストの尊い御体と御血になりますようにと聖霊に呼び求める(ギリシャ語でエピクレーシス=称名)。ただのパン、ただのワイン(これらはあたかも黒牛である)がキリストの御体と御血に聖変化していく。そのために三一の神・聖霊を呼ぶ(エピクレーシス)。黒牛が白牛へ変容するために、三一の神・イエスの御名を称名する。変容は、魔術的な力(人間の努力である称名)によってでなくて、その名のお方の力によって生じる。
 聖パウロが言う。「私は罪人中の最たる罪人です」(1テモテ1-16)と。復活したキリストを体験したそのパウロは「私は罪人中の最たる罪人です。という。光であるキリストに出会うということは、同時に私たちの罪深さを見せていただけるということである。イエスから最も愛されていた弟子のヨハネも言う。「もし、自分に罪がないと言うならば、自らを欺いており、真理は私たちの内にはありません。罪を犯したことがないと言うならば、それは神を偽りのものにすることであり、神の言葉は私たちの内にはありません」(ヨハネの第一の手紙の1章)と。神を愛する、神から愛されているというこの幸せ。しかし他方では同時に自分は神に背いてきた罪人であるという自覚。この両方の中で歩んでいく心の旅、これが私たちの在り様である。そのはざまにある罪人としての祈りが「イエスの称名」である。

2 呼吸法について
こうした境地に辿ることを助けるために『呼吸法の三点セット』がある。まず1つ目は、『深い呼吸』である。自分の吸う息と吐く息と、できるだけ腹式呼吸で、ゆっくりと下っ腹の『丹田』でおこなう腹式呼吸である。2つ目は、その時に『吸う息を短く、吐く息を長く』、『長出入短』。吐く息を3倍、4倍の息でゆっくりやっていく。無理に調整する必要はく、何度も呼吸をして落ち着いてくると、自然にそうなってくる。コツは『丹田』に心を下ろしていくということである。これは禅の指導者の様々なヒントを借りることができる。例えば、「目をつぶって鼻先を見るように」「あるいは目は半眼で」など。吐く息とともに『丹田』に降りてゆくことを意識する。『丹田』とは「フンッ!」といきんだ時に、下っ腹の最も力の入る硬くなる所。だいたい臍から握りこぶし1つ分くらい下の奥にあり、縦にも横にも奥にも身体の中心と言われている。その『丹田』にまで心を下ろしていく。そして3つ目は、呼吸法に慣れ親しみ、心の静寂を持つようになれば、息を吐き出しながら『主の御名』を呼ぶ。私たちは伝統的には七文字称名と呼ばれている称名を使う。つまり、「神の子、主、イエズス・キリスト、罪深い、私を、憐れんでください。」kurie iesou xriste,pyie tou,theou,eleison me tou amartolon  ある人には、何も考えず「主イエス様助けてください!」と、それだけでいいから呼吸と共にするように、すすめる。
「深い呼吸・丹田・主の御名」。この三点セットに意識を向ける。その間に雑念とか様々出てくるが、それを横に置いて、ひたすら気持ちをこめて、内在する三位一体の神に心を向けていく。そういうやり方が単純で早道といわれている。

3 4番目の『得牛』(とくぎゅう)と5番目の『牧牛』(ぼくぎゅう)に進もう。「牛とはなんぞや?」ということで1番目から旅は続いている。人は神の「像と似姿」として創造されていた。神の御心と共に生きていた。エデンの園にいたときは『白牛』の状態であった。しかし、アダムとエバは禁断の木の実を食べてしまう。これは前にも述べた『背覚(はいかく)』である。神に背を向ける。目覚めに背を向けるということだ。これが堕罪物語であった。まさにその時に私たちは『逃げ去った牛』の状態になったのだ。楽園から逃げて野性化し暴れ牛になった牛である人間。元々は『白牛』だったが、『黒牛』になってしまった。神の言葉に背を向け、自分で考え判断し行動した時から『黒牛』になった。野生化して『暴れ牛』の状態になった。それはアダムとエバの子どもたちに、カインとアベルに受け継がれ、その後もレメクに・・・罪が増大していくという歴史が人間の罪の増大の歴史が面々と続く。しかし、神の第二のペルソナであるキリストが人となり、救い・再創造の業がなされる。その恵みに返っていきたい。再び神と和解したい。キリストのタボル山での御変容であらかじめ示された復活のいのちで生きるようになりたい(『白牛』になりたい)。そういう人間の根本的な宗教的欲求を与えている。


4 いま、ようやく自分の客観的な姿、具体的なありのままの姿を少し(牛のシッポだけかもしれないけど)見つけた(「見牛」)。ここからどのようにして「白牛」化してゆくか。
自分の内側をさらに徹底して観察してゆくならば、自己の「狂い牛ぶり」全体が現われてくる。「本当に救い難き、地獄行き必須の自己」が解る。客観的にありのままの自分を見せていただいたということは、苦しく辛いが、実はそれは大きな恵みである。普通は真っ黒の牛である自己をなんとか自己のコントロール下に置き、つまり「得牛」しようとして、一生懸命修行・苦行する。何とかしようと思えば思うほど、一時は上手くいったかのように見えるが、その後でまた自分の古い『暴れ牛』の角が出てくる。これは自力修行者のはまる姿である。つまり「私が良きことをしようと思うと、もうひとつの私はまったく逆のことをしてしまう。(パウロのローマ書の6章と7章)」一方では「霊の方に従っていきたい」と思う私がいるが、「そうはさせまい」という肉の方が一方より強く働く。「あぁ、私はなんてみじめで悲しいんだろう」とパウロは嘆く。しかしすぐ続けて「しかし、キリストにおいて、褒めたたえるかな、感謝すべきかな」と一転する。その一転する瞬間はなんだったのか。キリストの恵みということを悟り、キリストに身をゆだねた(他力)瞬間であった。
4番目の『得牛』。それは自己分裂を知るステップである。私たち自身は、古い『黒牛』時代の自由で勝手気ままな体質が染込んでいるので、いくら解ったとしても、いくら覚ったとしても、なかなか『得牛』できない。この『得牛』と『牧牛』というのは本当の心の戦いである。これは「内面の修行」だといわれている。それ以前の『尋牛』目『見跡』『見牛』は「外的な修行」だとされる。「知識の上」で他の人の様々な体験を聞いたり研究したり読んだりする外面的な修行である。この『得牛』『牧牛』は自分と『牛』が一体になり、「これが私なんだ」として、そしてこのことの中に神の救いが顕われる体験が必要である。こういう体験は本当に本物の修行で、「内的な修行」だと禅の老師は言う。
自分自身と、その分身である野生化した『暴れ牛』と戦っている。ある「十牛図」の作者の絵では、一番目の図絵では、『黒牛』が縄をつけられる。次に少年が縄を投げて牛の鼻のところにロープをしっかりつける。その時の絵は鼻の先だけ真っ白になる。それで少年と牛が戦っているうちに、徐々に牛の身体全体が白くなっていく。そして次の『騎牛帰家』(きぎゅうきけ)で行くべきところ、故郷、我が家、心の故郷に帰っていく絵であるが、そこでの牛はすっかり『白牛』になっている。


U「牧牛」(第五図絵)
1 黒牛ぶりを受け入れること
日々の内面での戦いは、『得牛』(とくぎゅう)、『牧牛』(ぼくぎゅう)において追体験されている。黒牛から白牛に変えられていくのは神秘的な出来事である。『修徳』という概念がある。「徳」を修めて、聖性に至るという概念であるが、自力修行で良いのか、「修徳」をどのように理解するか、の反省が必要である。
黒い岩盤のようなのも、どうすることもできないようなもの、あたかも自分の本性にまで深く染み込んでしまっているものの気づきがある。それを消しゴムで魔法のように消したり、その部分をメスで切って斬り捨ててしまうわけにもいかない。どうすることもできない病気というものがある。肉体の病気であるか、心の病気であるか、人格的なものであるのか。それを「どう受け入れるか」。それを「受け入れて生きていく」という時、神の力や助けを願いながら、自己の「病ぶり」「黒牛ぶり」を受け入れて生きていく。また、家族や他人の受け入れ、協力によって病気があっても長生きできる。
この見方は、そのままアルコール依存や薬物依存の人たちについても言える。彼らは「自分は不治の病・アルコール依存症です」とか、「自分は薬物依存症です」という。「心の深い所で難病を抱え持った私である」という。つまり、「一種のアレルギー体質を持っている」ことを認めて、その体質を受け入れて生きていく時に、その人の人生が動く。アレルギー性鼻炎とか、牛乳アレルギーだとか、様々なアレルギーがある。それは肉体の問題だが、「魂、霊魂、心、人格」の中にも同じように、アレルギー・弱さ・不適応・障碍・傷・クセなどがあり、「自己のどうしようもなさ」に苦しみ悩む人が大勢いる。それを「認めて受け入れる」ことから生きることが始まる。そこには、自分のアレルギーや病気に対して「無力」であるという認めが必要である。
 黒牛の自己を知ると、自分がどんなに弱いか、狂っているか、貧しいかをしるようになる。しかし、「神に委ねるならば、平和に生きることができる」というのが福音である。「白牛」に変容されるのは自らの修行とか、自己で獲得できる類のことではなく、「神の力」によってである。神の光の働きのおかげによってである。神のエネルギーによって「白牛」に変容されていく。

2 タボル山の変容の秘儀が教えるもの 
ここに、「聖変化」への信仰が出てくる。ミサの中で、司祭がパンとぶどう酒の上に手をかざして(神の名前、イエズスの名前、三位一体の神の名前)聖霊に呼ぶことによって、パンとぶどう酒は信仰の中で、キリストの御体、キリストの御血に変化していく。ミサでの秘蹟的出来事を信じている。同じように「黒牛」の私が「白牛」になるという「聖変化」が、神の恵みにより、キリストの死と復活により、起こる。そのために、主の御名を呼び、主が来て下さるように、聖霊が来て下さるようにと「叫び求める(エピクレーシス)」。
これは東方ビザンチヌの霊性でタボル山の「イエズスのご変容」の霊性に向かわせる。人性をおびたキリストが、タボル山の上で、3人の弟子たちの前で変容した姿を見せた。
東方の修道者たちは「ご変容」の秘儀に、あやかっることを最終目的としている。その目的のために沈黙と孤独の生活を選び、絶えず「主の御名を呼ぶ祈り」をする。その実践の過程で、いかに自分は地獄行きの人間であり、罪悪深重な身であるかを経験する。思考においても、感情においても、欲望においても、どれほど、天の国から遠いかを、聖霊に照らされて知っていく。

内観の一週間は、屏風の中に入って、心理的な砂漠に入り、絶対沈黙を守り、自分に向き合って、聖霊に照らされる時である。その修行は自力修行で終わるのではなくて、聖変化の神秘の中に自分たちが入っていく。内観の後半は、「イエスの御名」を称えることに集中する。自己を明け渡すために、自己を無にするために「呼吸法」と「イエスの称名」の助けをもらう。対話は、話すことだが、それを自己の思考から切り離すこと。自分のしつこい考えにしたがったおしゃべりを手放すこと。主と対話している時は、それは主ではなくて私の頭の内部での独語である。だから、黙って、静まって、そしてその考えを手放して、主に委ねる。集中することと、心を空っぽにしていく修行であるといえよう。これを助けるのが『呼吸法』と、イエスの御名を呼ぶ』である。一つのこと、イエスのこと、我が身がどうなろうと、明日の私がどうなろうと、気の毒なあの人のことのこと、そのことも横に置いて、ただ主のみを、ただイエス、ただ三位一体の神のことだけを求める。
そしてそれを「そうはさせまい」とする様々な思い、それを『思い・想念』(ギリシャ語で『ロギスモイ』と言う)、さらに内側から肉の人間として起こってくる『パトス情念』が出てくる。様々な怒りであるとか、性的欲求であるとか、嫉妬であるとかが起こってきたら、分析や詮索や原因探しをしないで、すばやく横に置き、そして主を呼ぶ。こういう心の状態を守るのが『ネプシス』と『プロソケー』でもある。「心を見張りなさい」「自分の心の動きを注意して、用心していなさい」ということである。Tペトロ5章の8節、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵であるあなたが、吠えたける獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っている」と。この「身を慎んで目を覚ましていなさい」というのが「ネプシス」と「プロソケー」である。
特に自分の分別知、思い、そして情の動きに注意する。その原因探しや詮索し始めたら、その瞬間、神に背を向けて「心理学」をしている。心理学は救いの道具ではない。救いはイエズス・キリストだけである。だからイエス・キリストの所に戻らなくてはならない。これが念祷の中身である。坐っていたら、当然、「念」が出てくる。それで、その「念」が来たらすぐ、すぐにその「念を消せ」と禅でも言う。追いかけない。そして集中して、心を空っぽに向けていく。一つの『思い』が出てきたら自動的に次の『思い』が出てくる。そうしたらまた次の『思い』が広がっり、神に背を向けている状態が続く。『背覚』である。もうそこには神はいなくて、私の思念があるだけで、思考が宇宙遊泳している。それは「聖なる時間」ではない。静かなゆったりした時間ではあるけれども、それは神との愛の交流ではない、「聖なる時間」ではない、自己の時間になっている。そこには神はいない。あるのは私の思念だけである。

東方教会の師父たちも想像力を使うことを、厳しく叱る。なぜなら、「思いの中にサタンが入る」ということを彼らは知っている。「想像の中にサタンが入る」、これが失楽園の原点であった。アダムとエバはまず近寄った。そして眺めて、そして思い巡らした。その思い巡りの中に、「これは美味しい」という唆しが来る。「神がそれを言ったのですか?」と。いいえ、これは神のことではなくて、完全に人間の頭の中のことだった。

これが『得牛』と『牧牛』の内的修行の中身である。

ノートルダム清心女子大学「年報35号」(2013年3月)への寄稿準備原稿より