当別 十牛図
どうぞよろしくお願いいたします。
今日は少ししか時間がございません。来年8月に旭川で内観をしたいというシスターたちがいて、私は内観よりも北海道をあちこちドライブしたい気持ちが強いのですが、その前後にまたお寄りできるかなと思ったりもしています。
私は仏道のことをそれほど研究したわけではないのですけれども、とても気になっていることがあります。はい、仏教のことですが、あえて仏道と呼びます。それは、「教」というとキリスト教も「教」となったら「狂」になってしまう危険性がある。ですから、「道」ですね。キリスト道とか仏道と言ったほうがもっと純粋に聞えると思います。仏道への関心は心の内側へ、内側へという内面降下の関心がとても強いわけで、その辺が気に入っているのです。
キリスト道も本来そうであったし、皆さんもその道を歩んでおられることだと思いますけれども、私は教区司祭として召されて、教区に入って、小教区司牧とか集まりの中で、あまりにも外面的なことで頭が疲れてしまいました。やはり「内なる世界だ」という叫びに突き動かされて、1994年から心の旅に入り、行き着いたのが内観の面接者、指導者という世界に来たわけです。
キリスト教のすばらしさというのは内なる宝、内においていかに神との出会い、神のすばらしさを味わっていくかということなのですけれども、どうもその辺が充分と伝えられていないいな、と痛感するわけです。そして、仏教とキリスト教の対話というテーマはキリスト教に大事なことだと思っています。これは神さまの摂理だと思うのですけれども、私を内観の世界に導いて、人々の懺悔をひたすら聞き続けるという生き方を通して、キリスト教と仏教の対話によって、キリスト教自身が東洋の仏教から学んでいかなければならないということがはっきり出てきているような感じがいたします。
それで、仏道のことをざっとお話しして、内観のことをお話ししたいと思います。
仏教というと、皆さんはすぐに「禅」を思い浮かべるのですが、これは仏道の一派です。私の好きな言葉に「禅浄双修」(ぜんじょうそうしゅう)というのがあります。「禅」というのは座禅の禅、禅宗の禅。「浄」というのは浄めるの「浄」、浄土宗系の南無阿弥陀仏ですね。「禅」と「浄」をともにおさめる、「双修」。「禅浄双修」という立場をとるお坊さんもたくさんいらっしゃいますが、私も道を尋ねるうえでそういう立場をとっています。禅と浄土は裏表です。
ご存じのように、内観は浄土信仰、南無阿弥陀仏の信仰、つまり阿弥陀如来さまのご慈悲、救済ですね、南無阿弥陀仏と叫べば必ずや極楽往生させてあげようという阿弥陀如来さまのお約束を信じていく立場です。そのために、ほんとうに自分が救われるべき対象である、自分は罪深いのだ、このままだと地獄行きが決まっている、そこから「南無阿弥陀仏」と叫ぶ信心決定(しんじんけつじょう)、信心が固まるというのでしょうか、頭だけではなくて、心の底から「助けてください」「助けてくださってありがとう」という、肚の底からそういう気持ちにならせるための大霊操。集中的な内面修行、これが内観ということになります。
どうして救われない状態になったのかというと、私たちの思考、物の見方、考え方が外観的になってしまったからです。外の世界にあれこれとエネルギーを使ってしまい、それでおかしくなっていく。それで、まず自分の心の中に入っていくことを教えるのが内観であって、仏道も本来そうです。仏道そのものが自分の内に入っていくということになっています。そういう意味で、キリスト教信仰を内面化させていく私たち、特に東洋の我々にとっては、仏道の内面下りの道を学ぶということは、すごい重要なことですね。少なくとも私は、仏道は宝だと思っています。
「禅浄双修」のお話をしましたけれども、禅の世界もたくさんあって、日本には3つの宗派がございます。臨済宗、道元が日本的なものにした曹洞宗、そして黄檗(おうばく)宗という流れがありますけれども、その中で臨済禅というのが日本で非常に広まっているところですが、その臨済禅のなかで修行の指南書というか、わかりやすく書かれた物があります。それは禅の「十牛図」と呼ばれているものです。数字の「十」と「牛」。牛を眺めながら、私たちはいかに心の内なる旅をしていくか、どのようにして深い悟りに行くのかということを図で描いたものです。
ほんとうは、皆さんにその絵をお見せしてお話しすればよくわかると思うのですが、ここの図書館にも十牛図関係の本が何冊もあると思います。ところが、十牛図も、書いているお坊さんの体験に従っているものですから、その解釈の色がみな違います。
最初にできたのは、絵を通して心の深み、悟りの世界というものを教える、それはインドで起こりましたが、そのときは象の絵でした。そして、中国に行ってから水牛になります。水牛と修行者の絵。それも、10枚の絵に限らず、4枚の絵で表したものもあれば、6枚のもの、8枚、12枚で心の旅、内面降下の究極的な悟りに至ることを説いた、さまざまな牧牛図があったわけですが、それが日本で言われる十牛図の場合、象でもなく水牛でもなく、牛です。
よく考えてみれば、象であっても水牛であっても、牛であっても、その土地の庶民にとって身近な動物です。象と一緒に寝起きして、牛と一緒に寝起きしている、そして牛を眺めながら、いろいろ思索瞑想をして、悟りをもらうという日常生活だったと思います。だから、牛で描いた。ひょっとしたら皆さんも牛に名前をつけて、仲よくして、牛のことは詳しくおわかりだと思うのですが、平安・鎌倉時代ごろにその絵が中国から日本に伝わってきて、いろいろな絵にならず、10枚の絵で今日に至っているそうです。
ざっとしゃべってしまいますけれども、1枚目の絵は「尋牛」、牛を尋ねるという絵です。2枚目は「見跡」、逃げて行った足跡を見るということ。3枚目は「見牛」といって、逃げていった牛の姿を森の中で発見する、これは一種の悟りだともいいます。そして4枚目の絵が「得牛」、牛を獲得する、何とかして見つけた牛を自分のコントロールの下に置こうとして格闘している最中です。
では、牛とは何なのかということにもなってくるわけですが、私たちの言葉で言い換えれば、私たちの中にある神的なもの、内在する神というような見方で言ってもいいと思います。そして、5枚目は「牧牛」、牛を手なづけることです。
ここまでが二文字ですが、6番目からは四文字になってきます。6枚目は「騎牛帰家」(きぎゅうきか)、牛に乗って家に帰る。牛は自分の家がどこなのか、どこへ帰るべきかがわかっているので、こちらがコントロールしなくても牛に運ばれて、行くべきところへ行くというような絵です。そのあたりまでは、私たちも自分の体験を振り返ってみると、何となくわかる感じがするわけです。そして、その後に続くのが7枚目の絵で、「忘牛存人」(ぼうぎゅうそんにん)、牛を気にしなくなって、私だけがいて、私のなかにすべてがあるということ。一人の男が庵の中にいるというような絵です。隠棲している仙人のような生き方でしょうか。これが7番目。
おそらく、これが深い禅の悟りに至った、かなり高い境地にいるということなのですが、それで終らせない。皆さんはいろいろなところで8番目をごらんになったと思いますが、ただの丸だけを墨絵で描いた絵です。「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)牛も私もない、もっと超越的な境地だということです。
日本に伝えられている十牛図は、さらに9と10が来ます。9番目は「返本還源」(へんぽんげんげん)、もとに帰るということです。どういう絵かというと、花は紅、柳は緑、花と川と小鳥と、散る葉っぱが描かれています。悟ったら世界が変わるのかというと、変わるわけではない、変わったのは自分の心の状態。でも、大自然に対しての感受性が非常に敏感になり、そのなかにすべての真実を見出すという境地でしょうか。
10番目、私はこれが一番好きなのですが、「入?垂手」(にってんすいしゅ)。村の中に戻っていき、手を下ろしている。どういう絵かといいますと、布袋さんのように、メタボみたいなおなかを出して、サンタクロースのような頭陀袋と杖、魚籠(びく)を持って、はだしで村をにこにこ歩いています。
先ほど言いました、7番目で深い悟りを得た人が8番目の空と無、何にもとらわれない究極の悟りの丸、それが具体的にどうなのかというのが9番目、自然とのかかわりの姿ですね。雨が降れば、その雨はオーケー、風が吹けば、風が吹く、春が来れば春、夏は夏、秋は秋と、すべてそのことのなかに何かをいただいていくという生き方でしょうか。逆らわない。そして、同時に、山のなかにこもったきりではなくて、埃にまみれ、煩悩にまみれた町のなかに入っていく。
しかし、この世から離脱して、わかりきった人というのは尋常ではないわけです。よく言われるのは「痴聖」ということ。ですから、ほんとうにすごい人というのは、よだれを垂らして、すべて抜けてしまっているような、狂った人であるかのような生き方をする、それを痴聖というわけですが、何となくわかりますね。日本でも、偉いお坊さんが常識的でないことをしたりします。私はこの絵が一番好きです。
東方教会の霊性の中に「佯狂者」(ようきょうしゃ)というのがあるのをご存じでしょうか。辞書で調べてみますと、「佯」というのは偽る・振りをするという意味だそうです。狂ったふりをして、へりくだったキリストの真実の生き方をするという、ほんとうの聖人だそうです。ユーロジヴィという言葉で言っていたかもしれませんが、私はギリシア語がよくわかりません。
昼間は王様に向って「あなたの政治は間違っている」と、よだれを垂らしながら言う。王様も「あれは狂っているから、言わせておけ」といって捕らえない。預言者のような聖者のことを貧しい庶民たちは聖人と言って喜ぶ。そして夜になったら、佯狂者はすごい祈りをするわけです。東方教会には、そういう聖人の伝統があるそうです。この10枚目の絵では、痴聖とか「入?垂手」を黙想します。
私の持っている十牛図の10番目の絵は、布袋さんのように、にこにこして素足で、ぼろぼろの服を着た人が立っていて、そのそばには小学校の3年生か4年生ぐらいの少年が「おじさん、どこに住んでいるの」と――もちろん、そんな言葉は書いていませんが――不思議そうな顔をして修道者に問いかけている絵で終っています。実は、その少年は1番目の「尋牛」にあった、真実は何かを探し、尋ね求める心の旅に出ます。ですから、十牛図というのはぐるぐる回っていて、一直線ではない、円環的な動きだということがわかるわけです。
そのあたりのくだりを読んでいたら、ヨハネ福音書1章の、アンドレアとヨハネがイエズスさまに出会って、「主よ、どこにお住まいですか」と翻訳されているところ、「寝屋川市成田東町3−27」などと、イエズスさまは答えませんね、「来てごらん」という。その後どうなったかも書いていない、無言ですね。あの箇所を思い出します。
そして、その少年はみずから心の旅、真実を求める旅をしていきます。でも、その少年は森を見たり、谷を見たり、あちこちをきょろきょろ見ている。それを外観といいます。しかし、そこから徐々に真実、つまり逃げ出していった牛の足跡、雪か何かの上についている足跡を見つけて、この方向だということがわかるわけです。
普通、我々は神学の本を読んだり、聖書の註解を読んだり、み言葉を黙想して、その方向に歩んでいくわけですが、それは方向がわかっただけで、あいかわらず「知解」、脳みそでの探求です。足跡を探しているというのは、まだ内観には入っていない。私たちも聖書の言葉を聖書学的にごちゃごちゃと分析してきたわけですが、それは、まさに足跡を探して、知的な知識の情報量を増やすことで神と出会ったと勘違いしていたわけです。
しかし、いろいろな読み物を通して、また先輩の教えを聞いたりすることによって、3番目の「見牛」、それも牛のすべてではなくて、森の中に隠れている――ある絵では牛のお尻と尻尾だけが出ていたり、また森の中から牛の顔と角だけが出ていたりしますが、いずれにせよ、牛の一部分を発見する。これは1つの悟りではあると思うわけです。
その説明を聞くと、どういうふうに牛だとわかったのかというと、牛がモーと鳴いたのでわかったというわけです。それは、頭でわかったのではない、体全体で牛が鳴いていることに触れて、牛がいたということがわかる。神さまのわかり方もそうだというわけです。
これも1つの悟りだったわけですが、聖書を読んだり、お祈りをして神だということがわかったりしても、深みに入っていこうとして、神さまの足の裏しか見ていないのに、それをもっと知りたいといって、牛と格闘する。牛を自分の知性と趣味と価値観と傾きの枠に支配し、つまり、その中に神を入れてしまおうとするわけですが、どっこい牛は、こちらがとらえようとすればするほど、暴れ牛になって、向こうに逃げていきます。少年は牛の角にひっかけたロープをしっかり持っている、牛と人間との緊張感がそこにあります。そういう格闘の体験をします。
次の絵は、もう少し平和な姿、牛と少年の間の手綱はゆるんでいます。こっちだ、あっちだとは言わなくても、少年と牛、つまり内なる私と外なる私が統合されていて、平和で牧歌的な雰囲気のなかで一緒に歩いているという絵です。これは、自分自身の修行とか、体の中にいろいろな生き方が受肉していったといいますか、感情も統合されてくる、知性も統合されてくる、生き方全体が1つの方向に整ってきている状態でしょう。
そうした生き方がもっと、もっと身についてきて、全き自己統一というものに、もちろん聖霊の光、神の光をいただきながらなっていくと、内なる私は行くべきところを知っているので、少年は大きな牛の背中で笛でも吹いて、歌でも歌って楽しんでいれば、「牛に引かれて善光寺参り」という言葉があるように、帰るべき家を牛は知っているので、行くべきところに行けるのだと。私たちもきっとそうだと思います。自分のなかの聖霊の導きに完全にゆだね切ってしまえば、何の思い煩いもないということです。
これは禅の世界のことですけれども、内観の1週間の中でこれと同じ何を体験するかというと、まず、ほとんどの場合、外観をしてしまっているわけです。人のことをきょろきょろ眺めたり、あの人が悪い、あの人がこう言ったから私は腹が立ったのだというわけですが、それは横へ置いておいて、自分はどうなのだと、外を眺めることから内を眺めるようにこちらがアドバイスをします。
確かに、心の中を見るようになったとしても、学問的分析的な教育、伝統を受けたシスターや、心理学の勉強をしたお嬢さんは、心の中のことを理屈、学問的分析でああだこうだと言います。しかし、それも、まだ足跡を一生懸命に探しているだけであって、ほんとうの自分にも出会わないし、神にも出会わないから、それも横に置いておく。そして、牛がモーと鳴いた、あなたの理屈は置いておいて、モーと叫んでいる部分はどこなのかということを上手につかむわけです。本人にも、それを気づかせていく。
私は怒っているのだ、その怒りの理由は何か、どこから来たのかを調べてくださいと。それは正義に反していたから怒っていた、正義は何かといって、よく考えたら自分の理屈だったりするわけです。ということは、自我、自己中心的な物の見方、考え方があるから他を批判したり、判断するというような形になる。でも、そういう自分の乱れた姿を見てくると、今度は何とかそれを「得牛」、上手にコントロールしようとする。それで、また次の絵まで行かなければなりません。コントロールするべきものではないのですね。暴れ牛、そのままを私がどう上手に受けとめ、解釈していくかという、受けとめ方を自分で見出していく訓練です。そうすると、次の「牧牛」、暴れ牛の私と仲良く歩いていけるということです。
最初は真っ黒な牛だったのが、「得牛」、牛と闘っているうちはまだ黒い牛だけれども、5番目の「牧牛」あたりになってくると、牛の絵は半分白くなっています。そして、憎たらしい黒い牛だと思っていたのが、神聖な白牛に半分が変わっていって、そして6番目の「騎牛帰家」では、全く白い牛になっているわけです。
ですから、この私のどうしようもない面、コントロールして、告解をして早く消してしまいたいと思っているようなものを上手に受けとめる謙虚さ、謙遜の心が自分の中で起こってきたら、私の弱さや悪い癖や我というものすら白牛、つまり神の前で役に立つ、すばらしいものに聖変化していくという、これが1週間の屏風の中での聖変化、過ぎ越しの秘儀です。素直な人ほど黒牛から白牛へ変わるのだけれど、頭でっかちで理屈の多い人は、屏風から出てもまだ黒牛のままということがあるわけです。こういう体験の1週間です。
ですから、これは男の人にいい修行なのか、女の人にいい修行なのか、その尺度ではなくて、自分はどうしたいのか、どう生きたいのか、どうなりたいのかという発心の深さ、女性でも黒牛のままで終る人もいるし、男の人でも、気づけばすばやく回心の道へ行くということがあり得るわけです。ですから、あなたはなぜ内観したいのですか、私には、こんなどうしようもない面があるから何とかしたくてというのが、「よかった」というわけです。この人は、内観をする前から自分がどうしようもないということを「見牛」という3番目のカードを自分で体験しているということですから、後が早いですね。そういうおもしろい世界です。
2007年12月26日函館男子トラピストでの講話。30分間で十牛図の話は難しい。荒っぽい説明に終った。大雑把な素描を話したに過ぎません。
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