合掌の心とアーメン

(人間の魂の深層には、洋の東西を問わずぬぐう事の出来ない超越的なものへの渇きがある。それは宗教現象において「合掌心」という姿で現れている。魂の根源にあるこの共通の同じものは、素直になれば、誰にでも心当たりのあるものである。
しかし、それは様々な文化・伝統・歴史の枠において表現され、展開されている。差異にとらわれずに、これらにつきうごかされた人々に近づくとこちらまで「合掌心」が湧いてくる。
具体的に日本人として、仏教とキリスト教という観点からいうと、「ナムとアーメン」という合掌心になる。どのように両者は同じ息吹によって「合掌」させられているか。あれかこれかの教義的(学問的)問い掛けや比較分析によってではなく、「合掌心」に生きた宗教者を東西で眺める。
「内観」という内面くだりの現場にあって、様々な魂の旅を同行するものとしての経験から話す。 第21回仙台白百合女子大学公開講座の案内より)

 ご紹介頂きましように、私は「こころのいほり 内観瞑想センター」の責任者の藤原直達と申します。1944年(昭和19年)大阪市で生まれました。両親が秋田出身のカトリック信者でしたから、生まれてすぐにカトリックの洗礼を授かりました。大阪で育ったのですが、家庭内は東北・秋田出身の両親ですから、話すことばは秋田弁、味付けはしおっけがおおく、父は日本酒が好きでした。もちろん、ものの考え方も外向きでにぎやかな大阪人というよりも、忍耐深く思索的な東北人でしたので、私の遺伝子の中に東北がは入っております。父は青年時代にアシジの聖フランシスコの生き方に惹かれて入信し、徹底した信仰で生きました。厳しい信仰者でした。そういうところは秋田の頑固な男だったと思います。伯母は宮城県・涌谷におりました。内観指導のために全国を回りますが、最近は、自然と、東北や北海道へと足が向きます。これも私の中の遺伝子が呼ぶのでしょうか。

 19歳のときにカトリックの司祭になりたいと感じて、1964年東京オリンピックのあった年に、東京の上智大学に入学し、哲学・神学を学び、1973年、29歳の時に、カトリック司祭になりました。全国の大学で大学紛争の盛んな時代でした。それでも親戚の仏教徒であるおじたちは、おまえの両親がカトリックで、教会に入りびたりで育ち、純粋のカトリック培養をうけたのだから、当然当然カトリックの司祭になったのだ、と申しました。父は私が司祭になる前に、お前は日本人に神様のことを教えるわけだが、日本人の宗教心、仏教のことを知らないとだめだぞ、と申しました。 

司祭というのは、「神父さん」と呼ばれていますが、本来、社会や人々を「神にささげ祈る」役割を負っています。また、神学校で教えられましたように「魂の世話」「心のケアー」をする人です。しかし、現実の自分の行ってきたことは、大学で習った知識を伝える、聖書を研究してそれを伝えるという知的領域でやってきたなあ、あるいは社会的な外的活動にエネルギーを費やしてきたなあと反省しています。生身の自分の内面はどうであるかとの反省は充分ではありませんでしたし、心の悩み病む人達のよき隣人となっていなかったと反省しています。

とにかく教会で、普通の神父をしていましたが、十年もすれば、自分の限界を知るようになります。そんな時に、父がなくなり、奈良県大和郡山市にある吉本伊信さんの内観研修所で、はじめて内観というのを経験します。1983年のことです。それ以後、私の意識が徐々に変わりはじめました。現在、私は「キリスト者の内観瞑想」センターというのを行っていますので、内観についてお話ししておきますと・・・。

@内観というのは。
普通の大きな屋敷内部にある和室の隅に、屏風を立てて、外部と遮断します。一メートル四方の屏風の中に一週間閉じこもり、朝から晩まで14時間、トイレ・入浴以外は屏風から出ずに、ひたすら自分に向き合います。その方法は母からはじまって、身近な人々に対する自分はどうであったかを調べます。三つの枠組み、すなわち、@してもらったことAお返ししたことB迷惑かけたことの三項目で自分を時間系列で調べていきます。その間、一日8回前後の5分ほどの面接があります。一週間の間に、約40回の面接をするわけです。

母親に対しての自分を調べるうちに、生まれた時からどれほどの世話を受けてきたことか、それに対して自分は母親に対して何をお返ししてきただろうか、母親に迷惑をかけたことは・・・と調べてゆくにしたがい、生身の自分に向き合います。親から愛されていること、お返しができていずに自己中心的にいきてきたこと、なんと傲慢な人間であるかが、自然にわかってきます。母親に対する身調べ後に父親対しての自分を調べ、後兄弟や、友人、先生、上司、不仲の人に対する自分と言う風に、自分の態度を調べます。「うそと盗み」「養育費」などのテーマもあります。内観者に従って調べるテーマは違います。

こうした身調べによって、よい効果がたくさん出てきます。人間関係がよくなる、精神的なやまい・うつや神経症、依存的な生き方、自分探しの人・・・体の調子もよくなります。

A浄土教とキリスト教 生き方を問う。
内観を経験して、驚きました。西洋式キリスト教になじんでいた私にとって、普段の思考方法は、知識を吸収するということや、他人や社会を対象化して考える習慣がついていました。他者に「聖書を教える」とか「苦しんでいる人達を世話する、あるいは助ける」とかという関心が中心でした。いつも他者に意識がむかっています。自分が聖書の教えに生きるという関心はなかったわけではありませんが、やはり意識のエネルギーは他者に向いていました。それは自ずから他者や社会の批判心が強くなっていきます。すると、自分と違う言動に対しては、怒りや様々な感情に翻弄されます。しかし、内観では、他人のことはさておき、自分はどうであるかという自分への問いかけを行うのです。こした自己反省は、えてしてなおざりにしておりました。

こうして、内観研修所の責任者である吉本伊信師との出会いは、私の宗教者としての生き方に、方向転換させる、つまり、回心を呼び覚ましました。身調べ中に彼が私に喝を入れてくれました究極的な問い掛けは「アンさん、今、死んだら、どこへ行きますか。天国でっか、地獄でっか」でした。あるいは「何のために生きていますか。人生の目的はなんですか」。

A 浄土教とキリスト教の教えの構造。
クリスチャンが浄土真宗の修行である内観に与るというのに、不思議に思うかもしれません。内観では、自分はどうであるかの厳しい問い掛けをすることにより、阿弥陀如来への信を決定的なものにするという浄土真宗内部にあった「身調べ」をします。父や母からのご恩、親孝行、迷惑そういう観点から、自分の人生の態度を見るわけである。さらに、かかわりあった人との関係、兄弟、配偶者、知人、仲たがいしている人・・・さらにうそと盗みという風に、仏教で言う五戒(五つの戒め)、キリスト教でいう10戒から自分のいき方を調べるのです。罪悪が重くて、地獄行きに定められている自分であることを知り、そういう罪人の自分の救いのために誓願を立ててくださった阿弥陀如来へのゆるぎない信仰を持つための身調べです。そして、南無阿弥陀仏の念仏者へと導かれてゆく。そういうために行う身調べであります。

よく考えると、これはキリスト教のメッセージと同じ構造なのです。つまり、神に逆らって楽園から追放された人間のために、神は自分の子である、イエス・キリストを世に遣わし、キリストは人間の罪を背負って十字架で死んでくださった。そして神の像として人間を再び回復するために、神の子イエスを信じて、イエスの名を呼ぶことにより、つまりイエスに祈る、念仏ですね、ことにより永遠の命へと導かれる。このアミダ如来への浄土信仰とキリスト教の救済信仰は、構造的に同じである。
だから、私が、吉本先生の下で内観をして、感動し、かといって仏教に宗旨替えをしたわけではなく、むしろキリスト教徒として、もっとまじめにキリスト教徒になろうと、回心した訳であります。

B その後も、集中内観を繰り返していましたが、10年後の49歳の時に、「出家の出家」をします。つまり、責任ある仕事を離れて、「自分の心の内なるたび」に出ました。やがて、キリスト教徒たちの中に、内観的な自己理解を行いたい、自分たちの信仰生活はどこか無理があり、観念的信仰であるし、心の癒しを求めている・・・という必要性のあることをしり、あるきっかけで「カトリック内観」を立ち上げました。51歳ころでした。いま、「心のいほり 内観瞑想センター」と呼んでいるものです。

その後の展開。内観の道を歩みながら、私は自分のキリスト者としての信仰の中味が霊的に深められてゆきました。人々の魂の内面にかかわるようになりました。心と体が一如であること、それはわかっていたのですが、具体的に人間の内面とかかわるようになりました。
内観そのものが、仏教的風土から出てきていますので、仏教を学びました。大乗仏教の修行指南書である「大乗起信論」や意識の内面を徹底的に解明した「唯識思想」を学びました。

さらに、通俗的な西洋的キリスト教や心理療法などでは充分と扱えない領域を超えるために、カトリックの神秘主義的な聖人がたの智慧から学びました。具体的にはカルメル会の「大聖テレジア」に注目し、彼女から魂の内面の構造を学びました。
最近は、「東方教会の教父たち」から学んでいます。心の内なるたびも、その到着点に来たようです。

以上のように、私の過去を紹介させていただきましたが、この十数年の間に、集中内観者の千数百人の同行面接を行ってきました。そのお陰で、私自身も「魂の内面の巡礼」をすることができました。とても、自分は幸いであると感じています。
そうした経験を踏まえて、今日、これからお話ししようと思います。


ナムとアーメン
@S(92歳)さんのこと
さて、最初に、非常に印象的な話しをしようと思います。一人の老齢の信者さんがおりました。彼女の出来事をお話しましょう。
彼女は92歳でした。独身の60代になっている娘さんと二人暮らしをしていました。頭も意識もしっかりしていますが、足が不自由で、数年来小さな部屋に据えられたベットについたままでした。楽しみは毎晩、5勺ほどの晩酌をすることでした。その老婆にキリスト教のキリストの体として大切にしている御聖体のパンを運んで訪問したときです。
普通、キリストのパンを拝受する前に、準備の祈りとして「主の祈り」をいたします。彼女は恭しく背をかがめ合掌して「天におられる我らの父よ・・・」と私と一緒に祈りました。そして私は「おばあちゃん、イエス様が来てくれはったで。それでは頂きましょうか」といって彼女にキリストのパンを授けました。彼女はそれをいつものとおり恭しく拝受しました。その後、続いて私はいいました。「おばあちゃん。イエス様が口を通して、のどを通して、いまからだの中にはいって下さったので、マリアさまと感謝の祈りをしましょう」と。そして、アヴェ・マリアの祈りを、つまり「めでたし聖寵満ち見てるマリア」を唱えはじめました。彼女はこのときも拝領前よりも恭しく敬虔に合掌したまま祈り始めました。ところが、どうも祈りの声がはっきりしない。よく耳を傾けてみると「めでたし聖寵みちみてるマリア、おんみは女のうちにて祝せられ・・・むにゃむにゃ南無阿弥陀仏、ナムアミダ〜」とやっている。
ここで笑ってはならない。私は彼女が魂の深いところにまで下って神様に拝んでいる、神様と一枚になっている・・・それを言語表現したときに「ナムアミダ」となっていると考えましたので、私はアヴェ・マリアの祈りをそれ以上続行せず、手を合わせたままに沈黙で祈っておりました。
さて、この話をある年配のシスターに話すと、「実は告白するけれど、私もロザリオの祈りの最中に眠くなって、いつのまにか無意識のうちに「南無阿弥陀むにゃむにゃになっている」と、正直に私に言いました。

皆さん、この実際にあった話をどう考えますか。
「けしからん」という人がいるのでしょうか。
たとえば、熟睡していて夢の中でおぞましいこと(うそ・ぬすみ・邪淫・殺人)をしているとします。夢でそういうのを見たから「けしからん」事なのでしょうか。このした出来事は人間の「意識の深み」はどうなっているのでしょうか、という問い掛けに至ります。


A 意識について。
意識と無意識がある、ということは今日の時代では中学生でも知っています。意識は無意識の氷山の一角です。意識の深層は、深くて深層心理学が語る事柄よりももっと深い世界です。しかし、通常、我々はこの深層意識領域のことをあまり意識していません。ところがこの無意識、あるいは深層意識は、表面上の意識世界を支配している。睡眠中に意識の壁が緩んだときに普段すみに置かれていた意識が夢の中で出てきたりします。あるいは、なにかの出来事が意識の塀を突然越えてやってきたときに、とっさの振る舞いをします。普段すました顔をしていても、本能に近いことや我執や欲望に心地よいものに刺激されると、簡単に意識的なコントロール(呪縛)を無視して無意識の支配にもとずいて行動する・・・。こうして、人は無意識の指令に従って言動をしてしまう。これが凡人の姿でしょう。

今言ったように、意識には、表層意識と深層意識があります。内面世界に住む人々は、この深層無意識こそが真実の世界で、表層意識は夢か幻か偽りであり、はかなく絶えず変化し生滅してしまう領域であると了解しています。心の病にすんでいたり、瞑想者たちも、深層意識こそが、真実のものであり、それを大事に生きています。偉大な宗教家や天才たちは、魂(意識)の深い領域において凡人たちの気付かない真実の相に目覚めていたのでしょう。

B 事例の解釈
難しい話はこれくらいにして、先ほどの「ナム阿弥陀・アーメン」というお婆さんについて考えて続けてみようと思います。
92歳の老婆は、60台の頃、一人娘のすすめで、娘と同じ宗教であるキリスト教に入信して、毎日の祈りを欠かさず、敬虔なクリスチャンとして生きてきていました。60歳のころはまだ、知性的理解も適当にしっかりしていました。キリストさんは救い主で、罪深いわれわれを救うために十字架上で死んで、購ってくださった。それゆえ、イエス・キリストを信じて、彼に祈るならば、必ず天国へ生ける。死んでも娘と同じ天国へ行ける・・・。こう信じて洗礼を受けたのでしょう。もともと「南無阿弥陀仏」を唱えていたのですが、「阿弥陀如来様の救いとよう似ているキリストはんだな」くらいだったかもしれません。30年前に彼女の拝む対象が、ナム・アミダからアーメン・イエスにシフトが変わっただけで、心の深いところでは同じ「手を合わせて、合掌する」だったわけです。

それで、92歳の今、キリストのパンをもらってありがたく感謝している際に、意識を明確にして緊張して祈る際、しっかりと「主の祈り」を唱えることができたけれど、ありがたいパンを頂いて、神様と一致しているときに、彼女の深い意識は、昔からなじんでいる「ナムアミダ」が無意識に出てきていた。すこしおかしいなあと感じてか「ナムアミダ、アーメン」となった。


@ 実存の根底からのナム
a ここで再び、意識の表面のことと意識の深層のことを少しのべます。
意識の表層面では、ものの差別・区別・独自性をキチンとさせる働きが重要視される。キリストとブッダンの言っていることの違いも述べられる。それぞれの教えの独自性が主張され、キリスト教と仏教がある。「〜〜教」となれば「おしえ」であるから、そこに一つの明確な主張が出てくる。価値観というものが出てくる。ところが価値観というものは、民族性や文化や伝統に育まれて出てきており、様々な価値観の違いが生じて、それぞれの価値観の独自性が現われる。こうした「違い」を言うのは分別知のなせる業であるが、違いを主張するときに、争いや戦争がある。こうして、知識や理性という分別知のある表層意識では、ものの違い・差別・区別をするのを得意とする。

他方、無意識的な把握能力はもっと単純な反応をする。もっと無分別的な反応をする。食欲や性欲などの本能的反応と繋がり、自己の生存維持にかかわる無意識的な原則である。喜怒哀楽などの情動も知性よりももっと人間にとって原初的な能力であり、無意識内に強くこびりついている。こうした深層の無意識的な能力は、表層の民族的な価値観や文化の深層に巣食っており、人類の共通なもの、普遍性を持っています。

キリストとブッダは、表層領域における価値観の違いよりも、もっと深い人間の本質的な「生」に関してメッセージを述べている。人間のどうすることもできない暗闇に投げ出された状態、生老病死という四苦八苦の姿、何とか救われて心の平安がほしい、などについてどう対処するかを、キリストもブッダも述べる。無意識的で深層的な、人間の実存的なうめきに応えて教えをのべた。これらは意識領域の価値観というよりも、人間の放り投げられた実存の姿であり、人間の普遍的な、共通現象であり、人間の存在規定である。深層領域、無意識領域に対する答えをブッダもキリストも出しているのである。それに触れた時に、人は、ありがたいなと感じる。その様に思う。

こういう訳で、人間の本質的な問い掛け、実存的な深みうめきにたいして、意識は深層領域へと促されていくのである。意識の内面の深みへ、深みへと内面降下してゆくのである。

b さて、あの老女の唱えた「ナムアミダ・アーメンイエス」はどこから出てきたのか。
★意識的な教義的(ドクマ的)で神学的反省、あるいは信仰内容的次元からではないことは確かだ。
★もっと深い、無意識的な領域で、自ずから手を合わせた。
★それは、意識していないが、自分の無意識・深層領域にうごめくものに基づいている。
★それは日本人が1500年以上かけてできた文化・伝統・社会に漂う雰囲気を吸いながら生きてきた人間に刻印され、遺伝子内にも組み込まれているものである。
★それは教団の教える概念的な教義以前の、人間の実存の底に刻印されているところからのもの。
★それは大脳以前の生命構造に息吹かれているもの。
★それは人間を人間たらしめている「いのちの主であるお方」「いのちを包みこむ根源的な仏か神」に向かおうとする本来的な志向性・渇望が、ナム・アーメンと言わしめている。
★そこから出てきて、そこへ帰る、いのちのアルファ(最初)からでてきて、いのちのオメガ(終局点)へ戻ってゆく、いわば循環的な大きないのちの営みの呼吸に載って、ナム・アーメンしていたのではないだろか。

c この「ナム・アーメン」という感性は、知・情・意という三つの人間の精神的能力に加えた、第四の精神能力で、聖なるものへの感覚といいましょうか。あるいは「合掌心」といいましょうか。動物にはない精神能力です。そしてこれは人間共通の能力である。この「合掌心」に基づいて諸宗教もある、と考えています。
ことばをいいかえれば、合掌心のない宗教は宗教ではない。宗教の衣装を着けているかもしれないが、「結社」である。宗教的結社である。合掌心は、魂のぬくもりを感じさせ、魂の飢え渇きに潤いをもたらせるものだ。教義的な教団の教え以前の、言語化される以前の聖なるものへの感覚をおぼえさせるのが、ナム・アーメンの合掌心である。

そこで、次に、「合掌心」を見てみましょう。

A 合掌心ということ。
a 私は大阪府寝屋川市成田町というところに住んでいます。千葉の成田市にある新義真言宗のお寺である成田山から招聘した、寝屋川の成田山のある町に住んでいます。交通安全のお守り祈祷などをするので有名です。いろんな人が祈祷に来ます。そして、仏像の前で合掌してお祈りをしておられます。般若心経を唱える人もおられますが、ただ、無念夢想で合掌している人のほうが多いようです。
秋葉原で無差別殺人の事件後、現場を訪れる人達が花束をそえてやはり「合掌」しておられます。岩手・宮城の今回の大地震で被害を受けてなくなった人達に花束をささげて黙祷し「合掌」しています。
お葬式の時、焼香をするでしょう、そのとき、皆さんは合掌してどのように祈っていますか。死者を念じる・・・。合掌して、概念的な祈りを念じているわけではない。むしろ心を空虚にして、手を合わせて、何も考えないで、念じている。まさに、「ナムのこころ・アーメンのこころ」を起こしている。ここには非概念的で、非言語的な祈りがなされている。頭・意識上で「かくかくしかじか」といのっているよりも、心の内面に入り内面の深みにくだり、自らに立ち返り、非言語的な「フム〜」とやっているのではないだろうか。

b 時々、学校に呼ばれて、学生や生徒たちにいっせいにミニ内観を指導するときがあります。百人、二百人、三百人に大講堂などに集まって、内観と呼吸法を教えるのです。短時間で心の内に入ってもらうために、心準備として最初に、呼吸法をします。騒がしくて、先生たちが「静かにして」と叫び、それでも生徒たちは直ちに静まらない・・・よくある風景です。しかし、私は、静かに快い音色の出す「鐘」をうちます。すると、たちまち、講堂は静かになり、生徒はよく理解しているので、各自は呼吸法に入っていきます。それで、2,3分もすれば、波が引いたように、講堂はまったく静寂になる・・・という体験をしばしばします。
それで、呼吸法の最後に「合掌しましょう」といいます。両手を合わせて、手も呼吸しているのを感じ取ってください・・・とかの言葉をいいます。素直に数百人の生徒は合掌します。仏教徒であろうがキリスト教徒であろうが、あるいは特別な信仰を持っていなくても、みな「合掌」することに抵抗がありません。不思議です。今までの指導経験で、「合掌はいやだった」とのべた生徒はいません。
東洋的な宗教心では、理屈から入るのではなくて、形・体から内面の心の世界に入ってゆくのが得意のようです。とにかく、型をやってみる。禅でも「調身・調息・調心」といい、体を調え、呼吸を調え、心を調えることを教えます。まず、体・姿勢、型ですね、それを調える。次に、呼吸を調える。調息です。三つ目に「調心」がきます。心は最後です。なぜならココロはとらえどころのないもので、コロコロ変わるのでココロという、とか言う人もいますが、一番難解なのが、心なのです。それで、最後にきます。まずは、目に見える体の姿勢をつくることを教えます。いろんな修行では、やはり体、型から入ります。これはキリスト教の修道生活でも同じことが言えます。

若い生徒たちにも、難しい理屈を言わずに、姿勢を正し、呼吸をしてもらい、合掌をしてもらう。理屈ぬきに、何かを体験してもらう。そすると、心が落ち着いた、平安になった。これを試験の前に実行しよう、そうすれば勉強がよくできるだろうと、感想文を書いてくる。さ迷い、意識が散乱している状態から、本来の自分に戻ることができる。それも、素直で素朴な自分に戻る。正気に戻る。

手を合わせるとう簡単な「合掌」は、日本人にとって普遍的な「合掌心」を呼び覚ます外的な身体的な様式です。宗派に関係なく、だれにでもあるいのちの源に回帰する心です。これは先ほど申しましたこと、無意識の領域にはいのちの根源に対する普遍的で、実存の根底にそなわる第四の精神能力を呼び覚ます、身体的様式であります。合掌は、日本人の深層に備わった「拝む心」と並列している身体的な様式であります。

B ナムとアーメン
「南無」について。
a TVのCMでかわいい少女が手と手を合わせて「ナム〜」というのがあります。
手を合わせて(合掌)「南無〜」すれば、自然と魂が深みへと導かれる。形式的に合掌するだけではなくて、両手が呼吸しているのを感じるほど内面化した合掌を言う。すると、手を合わせると同時に心も、私と神様が合わさるような感覚が生じてくる。こういう感性を日本人の遺伝子・深層無意識に備わっているし、それを習いたいし、大事にしたい。合掌の姿は「体」ごと、内面化された祈りの姿である。

西洋経由のキリスト教の祈り方法は「合掌」せずに、むしろ「手を開いて、手を天に上げて」祈ることが多い。手を開く場合、意識内で自分の外の存在を対象化し、意識は外界に向かう態度であり、天に向かおうとする。外向きな様式では「メンタルな祈り」「善悪・敵味方の二元的思考」に傾きやすい。聖書のことばを考えたり、省察したり、想像力を用いたりしての祈りはメンタルな祈りである。自分の意識上でアレコレ考えるわけだ。知性の騒音を催す。
他方、合掌的祈りは内面化に向かう。深層意識へ向かう。こうして、手を開いて「頭で祈る」ことと「合掌心」の伴った祈りとには違いがある。
どちらがいいとかの問題ではなくて、祈りにもいろんな角度があることを認める必要がある。

「南無」とは、帰依します、帰命します、全身全霊を相手に入れ込みます・・・と言うような意味のnamasの音表現である。自分から抜け出て、自我を放棄して、阿弥陀様に全身全霊を上げて、帰依します、という意味でしょう。
キリスト教でも「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6の5 マルコ12の29)とあります。神に、イエスに、心をつくし、精神を尽くし、力を尽くして、南無するのである。でも、そこには、「自我の放棄」よりも、意志の強化・自我の強化のにおいを感じる。
いずれにせよ、我々は「南無阿弥陀仏」とは言わないで「南無イエス」と唱えるのである。我々にとり、イエス・キリストとご縁がありますので「南無イエス」なのである。啓示により「イエスのみ名」の尊さと価値を知らされているのである。救いのみ名である「イエスのみ名」にナムするのである。

b ナムという「音」そのものにも秘義が隠されている。ナムは「聖音」といわれている「オームー」の含まれた「音」である。根元音(根源音)である。「音」そのものに、神秘性と神に向かわせる不思議な力がある。(イスラムのスーフイは音楽と神秘性に詳しい体験を持つ。『音の神秘』) 根源音は、ほかには、禅で言われる「無」がある。吐く息と共に「ムーMU」とするのも、さまざまな表面的な意識を脱ぎ捨てて、神秘へと向かわせる根元の「音」である。アーメン、ロザリオの祈りのアヴェ・マリア、ハレルヤ、ホザンナ、キリエ・エレイソンなども「マントラ的根元音」である。根源音は表層意識から出てくるものではなく、深層意識からのものである。存在の深層部から出てくる「音」なのである。自我意識から裸にされた音である。根元の「音」は、感覚的に聞こえる「音」の彼方へと向かわせるものだ。そうすると、キリスト教の日本での祈り・典礼において、どのような「音」を出しているかは、関心の深いことである。祈りを魂の深みに向かわせるものか、騒がしい表層意識的な音であるか・・・考えねばならないことだ。

ある時、知り合いのベルギーのベネディクト修道院にいる日本人の若い司祭が手紙で言ってきた。東西宗教交流で彼のいるベルギーの修道院に日本から禅宗の僧侶たちがこられて、東西の祈りを披露しあった。彼は通訳として禅僧たちのそばに居たのだが、聖堂で僧侶たちが「般若心経」と唱え始めた時に、彼は戦慄を覚えたという。大地の底からの祈りが始まったと彼は言う。天に上る祈り、西洋の教会の祈りはそうであろう。大地から湧き出る祈りを経験した、という。これは、大地に入ってゆくことから大地から出てきた祈りだろう。腹の底からの読経であった。それは多分に、呼吸と深い関係がある。

c ナム・合掌は「呼吸」とも関係している。たとえば、日本語の「いのり」も、神の息に人間の息が載ることで、それで「い・の・り」となる。(故押田成人神父) 大いなる神の息吹の中に、小さな人間の呼吸が一枚となる・・・そういう現象を「いのり」と説明されている。呼吸を大切にすることで、「いのり」がふかまる。つまり、神の息と一枚になる。吸う息とともにいのちの根源であるお方の息吹を頂き、吐く息とともに「南無イエス」と唱える。吐く息で、「ムウ〜MU」と、内面の神秘へ降りてゆくような「いのり」がほしい。こうした呼吸と一枚になった祈りによって、神の霊(息 プネウマ)に載っていけるのである。
「ナム〜」と音を出すときに、愛の心を注ぎのせて、行うときに「キリスト教的な南無」がある。

神は知性だけでは把握できない(否定神学でいうように)。彼岸からの光り、助け、恵みによって人間と言う器をこえる神の何ものかの把握に近づける。分別知を超える「智」が必要である。「知」の浄化と聖霊に清められた後に与えられる恵みの領域である。神を知ることは、知性を超えた現象である。神は人間の知性の枠に納まりきれるお方ではない。ちなみに「知性」をヤマイダレの知、つまり、「痴性」と揶揄することもある。
知性を重んじすぎるのは、いかがなものかとの反省。アヴィラのテレサは「祈りとは多くを考えることではなく、多くを愛することです」と言う。


鐘の音・呼吸
1 鐘の音。
@ 西の鐘と東の鐘。
「「カァン(came)かゴオォン(gone)」か」。
出す息の音か吐く息の音か。
天に響く鐘。腹深くへ響く鐘。

2 呼吸をしましょう
(白百合市民公開講座2008年7月5日 実際の講演内容は原稿と違ったものであったが)