「大きないのちに生かされている私」

T (祈りということ)

イ 人生の目的・キリスト者の目的は「神を知る・神との一致」にある。
「知る」とは「知識を大脳的に知る」と言うのではなくて、「経験する、体験する、交わる、一致する」などの実存的な意味である。夫婦の関係(ルカ1の34)などのように、具体的で全人格的な交わりとして「知る」ことである。ヨハネ文書での「神を知る」の表現を参照。だから「祈り」も、「全人格的な神とのつながり」の中で見直すこと。

〇「超越的な経験」(神を知る−に属する)は、大自然や非日常的な空間の中で、たとえば老木の茂る神社仏閣などの境内に身を置いたり、日常現実の流れを絶ったりして、そこに身を浸すことで自然に湧いてくるが、これも祈り。こうした自然での体験も、聖霊が放射する何らかの祈りである。霊気に満ちた土地・空間などの感性も持ち合わせている日本人にとってなじむ方法である。仏道者たち自然宗教の人達、フランシスコなどを参照。自然による癒し。
〇み言葉・自然・他者をとおして語りかける神。これら、自分のそとからの働きかけを受け取ることで「神を知る」。
〇以上の「祈り」を踏まえて、厳密な意味での「祈り」によって「神を知る」とは。

ロ 「祈り」という方法によって「神を知る」。
人々は「メンタルな祈り」(頭を使う)よりも、存在全体での「(オントロジカルな)祈り」を求めている。メンタルなものは相対的で、生滅し、流行があり、表層的なものである。イエスがそうであったように存在全体を通しての祈り、一層深い祈りにあこがれる。聖霊の恵みが必要。
存在全体での祈り・・・とは。存在の基幹(土台)にあるのは呼吸である。呼吸する人間が呼吸とともに神に向かう姿がオントロジカルな祈りといえよう。


ハ「南無」について。
「頭で祈る」ことと「合掌心」の伴った祈りとには違いがある。手を合わせて(合掌)「南無〜」すれば、自然と魂が深みへと導かれる。形式的に合掌するだけではなくて、両手が呼吸しているのを感じるほど内面化した合掌を言う。手を合わせると同時に心も、私と神様が合わさるような日本人の感性があるが、それを習いたいし、大事にしたい。今回話題にするのは、頭(メンタル)の祈りではなくて、合掌心の伴った祈りだ。神に「ナム」すること。合掌の姿は「体」ごと内面化された祈りである。
西洋経由の祈り方法は「メンタルな祈り」に傾きやすい。聖書のことばを考えたり、省察したり、想像力を用いたりしての祈りはメンタルな祈りである。祈り・黙想は、知性的な学習に終らないように注意しなければならない。さもなければ知性の騒音を催す。それゆえ、知性的なキリスト教に対して、日本ではキリスト教はにぎやかで騒がしい割りには、深まっていないと評価されてしまう。存在的祈りとは、意識の深層へと下る祈り、身(体)についた祈りとなることを目指す。

「南無」とは、帰依します、帰命します、全身全霊を相手に入れ込みます・・・と言うような意味のnamasの音表現である。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6の5)とあるように、神に、イエスに、心をつくし、精神を尽くし、力を尽くして、南無するのである。我々は「南無阿弥陀仏」とは言わないで「南無イエス」と唱えるのである。「南無イエス」なのである。啓示により「イエスのみ名」の尊さと価値を知らされているのである。救いのみ名である「イエスのみ名」にナムするのである。

意味だけではなく、ナムという「音」そのものにも秘義が隠されている。ナムは「聖音」といわれている「オームー」の含まれた「音」である。根元音(根源音)である。「音」そのものに、神秘性と神に向かわせる不思議な力がある。癒しの音もある。「音」から「声」へ、そして「ことば」へ。普通は、「ことば」が独り歩きして、観念ことばになっているが、逆方向から「聖書を読み直す」事が大事。聖書の言葉のうちに、神の「音」、聖霊の「音」を聴けるようになれば、その人に「聖霊降臨」が生じたと言えるだろう。

日本語の「いのり」も、神の息に人間の息が載ることで、それで「い・の・り」となる。(故押田成人神父) 大いなる神の息吹の中に、小さな人間の呼吸が一枚となる・・・そういう現象を「いのり」と説明されている。呼吸を大切にすることで、「いのり」がふかまる。つまり、神の息と一枚になる。吸う息とともにいのちの根源であるお方の息吹を頂き、吐く息とともに「南無イエス」と唱える。こうして呼吸の祈りによって、神の霊(息 プネウマ)に載っていけるのである。

神は知性だけでは把握できない(否定神学でいうように)。彼岸からの光り、助け、恵みによって人間と言う器をこえる神の何ものかの把握に近づける。分別知を超える「智」が必要である。「知」の浄化と聖霊に清められた後に与えられる恵みの領域である。神を知ることは、知性を超えた現象である。神は人間の知性の枠に納まりきれるお方ではない。ちなみに「知性」をヤマイダレの知、つまり、「痴性」と揶揄することもある。
知性を重んじすぎるのは、いかがなものかとの反省。
アヴィラのテレサは「祈りとは多くを考えることではなく、多くを愛することです」と言う。

「ナム〜」と音を出すときに、愛の心を注ぎのせて、行うときに「キリスト教的な南無」がある。


2 よく知られている様々な「祈り」
聖人の好みや、時代や文化や風土の影響によって、「祈り」にも様々な色彩がある。
ギリシア風、スペイン風、ドイツ風、ロシア風・・・。ベネディクト流、フランシスコ流、ドミニコ流、イグナチオ流、テレサ・ヨハネ(カルメル)流・・・。これらの多様性のあるのは、様々な感性を用いて神と一致するがためであろう。自分の経験した方法だけを絶対視するのは、無知をさらす恥となる。これらの先達たちから学びつつ祈りにおいて進歩・深まることを求めようとしている。

聖霊は人が神を知るため、賛美するために、様々な民族や表現方法を、創造のときから刻印している。ヨーロッパ風だけではなく、アフリカ風、アジア風というのがあるのは当然であり、遺伝子の中に組み込まれている「祈りの感性」を無視しては、存在の深みからの祈りとならない。「福音の文化内開花」というテーマはそこにある。

20世紀以後はヨーロッパ・北アメリカ・オセアニアという白人文化圏のキリスト教の割合は全キリスト者の4割で、6割はアジア・アフリカ・南米が占めている。19世紀までには、考えられなかった状況変化がある。いつまでもヨーロッパ的祈りの方法(数百年の伝統があるとしても)に終始しているには、無理があるし、深まらないし、福音が受肉しない。伝統固持するだけでは、要するに、神の御心ではない。つまり祈りを深化させるのは、福音宣教を深化させることなのだ。

以下に様々な祈りを紹介する。どれもよいものが含まれている。
@ 聖書をゆっくりと読みながら心に響くところで留まる方法。
「教会の祈り」で祈る。祈祷書で祈る。聖なる読書(レクチオ・ディヴィナ)。
聖書のみことばが、我々の知性に光として照らしてくれる。
教父たちは、詩篇の祈りの重要性を述べている。(聖アンブロジオ「詩篇解説」教会の祈り年間第十金曜読書課第二朗読参照。ほか、砂漠の師父たちの弟子への戒めを参照。)

また、パドアの聖アントニオの説教参照。(6月13日聖人の祝日の「教会の祈り・読書課・第二朗読」)

禅の『十牛図』での第二図絵の「見跡」のように、先達のことばなどを学びながら、足跡を辿りながら、真実の発見の旅をするのである。

A 「主の祈り」 イエスは弟子たちに祈りを教えたが、それは福音の要約でもあった。キリスト者がどういう道を歩むべきかを教えている。(教会の祈り 年間第十一週 読書課 聖チプリアノによる「主の祈り」の論述を参考に)
「主の祈り」を味わって心を込めて祈り祈るとき、聖霊と共に御父に「アッバ」と言っている。そのとき、神を「父 アッバ」といっているのでから祈る
人は「神の子」(ヨハネ1の12)として祈っている。「私」と祈らず「私たち」となっている。それは一人で祈っていても、いつも祈る人は「祭司」職を果たしているのだから、全世界を代表して宇宙的に祈っているのである。この祈りは決して個人的に終らない。
最初に「み名が聖とされますように」と神ご自身があがめられるように、神を第一とされるように教える。それは私たちの日常の必要な願い事に優先されている。神が聖であるように我々も聖とならねばならない。御父のみ名があがめられるように、イエスのみ名もあがめられるようになる。

B ロザリオなどの信心的祈り。
信心的な祈りは「合掌心」を育ませてくれる。理屈ではなく、神の領域へと肉体を持った我々を導いてくれる。繰り返し行うことにより、肉体・意識が覚えて、無意識的状態のときにも「祈り」へと導かれる。祈りが良いクセにまで育ててくれる。しかし、こうした信心的祈りは、「我執」からの解放という課題には充分と答えていない場合がある。

ロザリオは詩篇150篇を読めない修道者たちに与えた祈りといわれている。とはいえ、長い歴史の中で多くの人々がこの信心を通して信仰を深めて行った。マリアを通してキリストにおいて現われた神の救いの秘義を、四つの玄義(キリストの託身・キリストの教え・キリストの受難と死・復活と完成)を味わいながら、その神秘の中に参与してゆく祈りである。
とりわけ、アヴェ・マリアの中の「御胎内の御子イエズスも祝されたもう」の箇所は、マリアの御子イエスを胎内(丹田)における現存を体感していた神秘的経験に参与するのを促してくれるだろう。

C 「十字架の道行きの祈り」。
聖痕を受けたフランシスコ(会)にゆだねられたイエスの受難と死の神秘を味わうものとして十字架の道行きの祈りがある。イエスの受難を思うことにより、「我執(罪の元凶)」の殻を破り、彼岸からの照らしを受ける場合が多い。集中内観の後半で、内観者に「十字架の道行き」の祈りを勧めると、内観が一挙に深まることがよくある。

D 「祈りの集い」などでの祈り。他者を通して、光を分かち合える。人を通して語りかける神の言葉。人間は一人では生きていけない面がある。人と人の「間 ハザマ」に働く聖霊。
分かち合いのルールとして:議論しない、質問しない、説教しない、正直であること。「自分はどうであるか」と思考を自己へまき直す。他人のことばを通して自分の心に戻る。

E イエスのみ名を呼ぶ祈り」。使徒行伝によると、この祈りをする人達を「キリスト者」と呼んだ。


3 「イエスの祈り」
イエスの祈りは東方教会の霊性の土台である。カトリックでも連祷として普及。アシジのフランシスコ、イグナチオ・ロヨラなども知っており、西方教会でも地下水流で保持されている。(5月20日 フランシスコ会士・シエナの聖ベルナルデイノ 14世紀 任意記念 彼は「イエスのみ名」を広める、とある。読書課参照) 

簡単であるが根気が要るし、奥は深い。念仏専修と似ている。日本仏教では、多くの人々が、「南無」を繰り返し繰り返し、行い、そうして宗教的体験を深め、信心を強めているという現実がある。そういう宗教的風土の日本で、現実の(通俗的)キリスト教は「知識・頭の、外国の宗教」とみなされ続けている。ようするに知識的な宗派とみなされ、外的活動を好み、それゆえ宗教的体験を汲めない渇きを持っている日本人信徒が多い。

『あるロシア人の無名の順礼者』(エンデルレ書店)
無名の順礼者の場合、絶えざる祈りに心を奪われ、どうすればそれが出来るようになるかの求道の旅にでる。老師との出会いから、彼は、「イエスのみ名」を呼吸と共に、心臓の鼓動と共にするように教えられる。まず、3000回を指導され(P15以降参照)、その後6000回を修行した。その後12000回行っている。やがて彼は聖霊の体験をし、神の神秘の中で生きるようになる。東方教会の霊性、「イエスのみ名の祈り」の入門書として優れている。(『フィロカリア』『イエスのみ名を呼ぶ祈り』をも参照。)

比叡山の琵琶湖側のふもと、坂本の地に天台真盛宗の総本部・西教寺がある。近くの唐崎で内観会場を開いているので時々私も参拝する。その宗祖である真盛上人は、法然と同じ比叡山の念仏道場である黒谷・青龍寺に篭もり、一日六万遍の念仏専修をした後、不断念仏宗を開いた、と言われている。他の偉大な僧侶たちも、数万回の称名修行をしている。無名の巡礼者の1万2千遍をはるかに越えている。そういう宗教的に豊かな風土に、西欧からの外来のキリスト教がいかに市民権を持つことができるか。無理と限界がある。

考える材料として、仮に一呼吸を10秒として計算し、一呼吸で一回の南無をするとすると・・・。(普通の呼吸は吸う息が1秒で吐く息が2秒と言う。それを少し落ち着いて丁寧にすると誰でも一呼吸10秒くらいでできる。さらに長い呼吸ができるように練習していく。坐禅では一呼吸35秒を目安にしてと言うが、達人などは一分に一呼吸、あるいはそれ以上の長い呼吸となるそうだ。 今日、呼吸法に関する本は多い。それぞれの流派もあるが、簡単な本として「ストレスをなくす心呼吸」高田明和著 リヨン社)
1回・10秒とすると、10回に100秒かかる。100回するならば1000秒。1000回だと1万秒。10000回は10万秒。となる。つまり、3000回の呼吸は3万秒かかる。3万秒は8時間以上となる。3000回の称名をするとすると、8時間以上ひたすら「み名を呼ぶ」と言う修行だ。それを6000回の場合、16時間の称名し続ける。1万2千回するとすると、寝ることなく24時間、称名し続けなければならない。盛真上人が一日6万遍の念仏をしたというが、一回の「南無阿弥陀仏」を何秒で称えたのであろうか、それによって回数の加減は変わる。いいたいのは、回数にこだわらず、念仏(あるいは「イエスのみ名を呼ぶ」こと)をひたすら一日中行うと考えていいだろう。意識の中には念仏(祈り)以外は何もないという状態を言いたかったのであろう。徹底的な意識の集中がなされる、ということだ。
 
私も「イエスのみ名を呼ぶ祈り」と「呼吸法」を修得することを勧める。東方教会での唱え方は、フィロカリアなどで勧めているのは、心臓の鼓動にあわすか、呼吸と共にするか、両方が書かれている。これも、師父たちの経験によって若干違ってくる。東洋人の場合、体型(身体的理由)とか自我構造からは、「呼吸」を重視したほうがいいのではないだろうか。心身に無理をきたさないように、工夫の必要がある。また、心の在所を「心臓」に置くというが、私は「丹田」「肚」を、心の在所としている。こうした伝承の違いもあるが、日本人の体型や心情を考慮したほうがいいと考えている。

「イエスの祈りを唱えるに当たっての簡潔な指示」(「ある無名の巡礼者」エンデルレ書店 付録P285)
1 明かりを薄暗くした、静かな場所に座る。立っていても可。
2 気持ちを落ち着けること。
3 想像力の助けを借りて心の在所を見つけ、慎重にそこに留まること。
4 知性を頭脳から心臓へと導き、静かに声を出すか、もしくは心の中か、自分に合う方法で「主イエス・キリスト、私を憐れんでください」と唱える。祈りは、ゆっくりと恭しく唱えること。
5 出来る限り、知性の注意力を見張り、どんな想いも入り込むのを許さぬこと。
6 忍耐強く、安らいだ気持ちでいること。
7 飲食物、睡眠の節度を守ること。
8 沈黙を愛することを学ぶこと。
9 聖書、または祈りに関して教父たちの書いたものを読むこと。
10 できる限り、気の散る活動や仕事を避けること。

U (諸宗教との対話)

第二ヴァチカン公会議後のいま、「諸宗教との対話」が奨励されている。キリスト教は、日本における他宗教とは、主として仏教との対話が奨励されている。つまり、仏教の中に含まれている創造主である神の刻印を読み取り、日本人の遺伝子の中に刻み込まれている宗教的な資質に目覚め、それを開発させて神を賛美し、神と出会う・・・こうして神の創造のみ業が豊かにされる。こうした課題が重要とされている現代である。福音が知識(頭)領域で終るのでなく、人格・生活・文化に染み込むには? これらは生きた信仰生活のために当然生じてくるはずの問題であった。「福音・宣伝」ではなく「福音が受肉」するにはどうしても必要な課題である。

これは日本人信者自身がなさねばならない課題・使命である。聖職者たちよりも、一般信徒のほうが現実味を帯びているはずである。要するに「下からの」盛り上がりが大事。ところが、実際は欧米の修道者たちが、とくにドイツ圏で、キリスト教と仏教の対話をより多く実践している。日本の制度的教会ではあまり実践されていないさびしい現状があるが、むしろ日本の一般人(仏道側)のほうはよく研究している(花園大学 龍谷大学 大谷大学)。
(ディユンモリン神父、愛宮ラサール神父ほか。ドイツにはキリスト教的な禅瞑想センターがいくつもあるそうだ。ドイツ神秘思想の影響であろうか。ある学者は、西欧キリスト教の結末がナチス・ヒットラーの出現と原爆投下と言う悪魔的な現象を生み出したという、大いなる反省があってドイツでは仏道研究が真剣である、と言う。)

祈りを深める(キリスト教を深める)という観点からすると、「東西の宗教の対話」からたくさん学ぶことが出来る。そして対話は「祈りの深層」へと導かれてゆく。表面上の変化ではなく、地中海地方的・西欧式キリスト教自身が深みから刷新され、その偏狭さから脱皮し、真の普遍(カトリック)的教会へと回心するきっかけとなるだろう。それには西欧的な思惟枠そのものの反省、根源的諸前提の見直しなどが伴う。
(南山大学宗教文化研究所編「キリスト教は仏教から何を学ぶことができるか」参照 ほか多数の書物あり)


省察的祈り・瞑想的祈り。
様々ある祈りの方法を、省察的祈りと瞑想的祈りに整理することが出来る。
省察的というのは黙想や霊操や聖書などにおいて、知性や感情や想像力を使って行うものであり、大脳の新皮質的な部分での営みである。これは祈りの初歩的な道であり、出発点、土台でもある。「道を学ぶ」という教育的な面がある。meditation(黙想・霊操)と呼ばれているもので、概念的・意識的な理解を主眼としている。 

瞑想的というのは、省察的な祈りが深まり、知識・思索・考えの領域から離れ、意識のより内面深くに降下してゆく祈りである。概念や観念、さらに情念(感情)などからも遠ざかり、身軽になって行く道だ。身軽な魂は、超越的な神に向き合うべく、押し出されてゆける。知性が主観的に概念的に把握し、想像力が作る神のイメージや、人間の情動からも離れ、空や無であるもっと超越的な神への内なる霊的旅である。そういう祈りである。「観想」ともいえる。Comtempretion  

これは、仏道との「対話の中味」の世界である。(秋川神瞑屈の故ラサール神父の著作参照。ほか「不可知の雲」「十字架のヨハネ」「アヴィラの聖テレサ」「エックハルト」「東方教会の神秘的霊性」などはその方向へ向かう)
残念なのは、欧米人は「空・無」について、充分と理解できていない、誤解している場合が多いのが実情である。なぜなら超越領域を意識領域によって(知性・理性で合理的に)把握しようとするからである。「無」は無いことではない。むしろ概念的理解の「超」であろう。超越と内在を語る一種の表現なのである。せめて、東洋にいる宣教師たちは、「空・無」の理解を深めるとか、瞑想体験をしてほしいものだ。さもなければ「宣教」というよりも「宣伝」と受け止められてしまう。悔しいことだ。

意識領域の祈りから、無意識領域(より深い)の祈りへ。
祈りの深層にすすむとは、同時に「心の深層」に分け入っていくことを意味する。そうすると「心」に関する知識(経験)が必要となってくる。我々は、現代の深層心理学よりも数千年前からすでに実践的智慧として、心の深層の体験的知識をもつ東洋宗教から、その恵みを汲み取ることが出来る。また、東方教会の師父たちの書物も、こうした領域に関する記述は多いので、キリスト者には心強いことである。
(手始めとして鈴木大拙、井筒俊彦、玉城康四郎の著作。カトリック内では門脇佳吉神父、井上洋治神父、押田成人神父、奥村一郎神父、田中輝義神父、宮本久雄神父の著作など参照。本多正昭元教授、小野寺功元教授ほか在野の信徒)

こういう祈りの道の前提となっているのは
(イ) 人の中に神が内在しているという教えである。神が内在するというのは、ヨハネ福音に
おいてしばしばイエスご自身が教えていることで、大きな仕事をした諸聖人たちの内面での神秘経験は、この神の内在経験であった。超越している神が、内在している。
仏道では「一切衆生悉有仏性」といい、キリスト教側が表現する何らかの超越的な内在経験を悟りとする。内在する神は、時が満ちれば、人の中から意識領域へ噴射するかのように、顕になってくる。これは人間側の努力・修行による自力的に達成できると言うより、聖霊による恵みなしに不可能であるが。「時が満ちれば」と言うのは、個人的にも集団的にも宗教意識が目覚めてゆく時である。人の中に様々な束縛(呪縛)や壁があり、雲がかかっており、それらから自由になるにつれて「時が満ちてくる」。恩寵の光は、あるとき「忽然」と訪れるのだろう。神について、盲目な状態である我々の目が開かれて、キリストと一枚になってゆくのは、普通の場合、清めと照らしの道を経てである。

(ロ) 時系列的思考(ホリゾンタル)から垂直降下(バーチャル)的思考へ回心。
考え方・思惟枠を変更せねばならないこと。通常の思考パターンは「時系列的思惟」である。合理的・論理的・分別的なもので、歴史的に見ようとしている。その見方は「正邪を裁く神」を前提としている。この思考枠をヨコとすると、このヨコ・水平・時系列の枠を、タテ・垂直・内面降下の方向へ移動する。つまり、内へ内へ、下へ下へと下って行く思考、つまり「垂直的な思考枠」への移動であり、それを回心(メタノイア)という。この思惟枠はヨハネ的視座でもある。この視座で祈ること。通常の価値観、概念、観念などを組み替えてゆくと言う精神的作業が伴ってゆくが、これこそが回心の中味である。呼吸法などが導いてくれる。
教皇パウロ6世『福音宣教』の教えは預言的であった。彼は地理的拡大という宣教から、魂の深層へという方向転換(コペルニクス的転回)して、と新しい宣教の概念を提示した。

(ハ) 真実の自己に向かって。内なる神への旅は、真実の自己との出会いでもある。様々な呪縛から解放されて自由になってゆく道である。後天的に着飾った諸知識(呪縛していた知識)を脱ぎ、赤裸々な生身の自己に近づいてゆく道である。結果、自分の真実なアイデンティテイを確信するようになり、様々な心の癒しなども生じる。もちろんそのプロセスでは、清め・照らしを歩む。固有の召し出しの発見などへも至る。

(二)意識の殻を破る。祈りを深めると言うことは、心の内なる意識が、より一層純粋意識へと変容されてゆく事である。我々の意識(考えなど)内には、幾重もの壁や濃き雲、あるいはまた、垂れ幕があって、様々な殻で固められ、歪曲されている。意識の内面降下するということは、それらの殻・壁・垂れ幕を取り外す、破る、超えるなどと表現されるように、意識は一層裸にされてゆく旅である。別の表現をすると、意識が洗濯、濯がれてゆく道である。今ある意識の殻を破ってゆくことである。こうしてより一層、真実の自己が顕になって行く道である。

根本仏教から大衆化されて、民衆に受け入れられたものへと展開した大乗仏教は、本来、禅浄双修するものであった。それが特に日本では禅・浄の二方向へ分離して展開していった。キリスト教との対話というか課題の前に、再び禅と浄を綜合せねばならないと感じる。絶対無を目指して、禅修業だけを取り出して内面降下するのは、価値理論は認めるとしても、ぎこちないところ、あるいは、実存的生活上から見ると、自己矛盾に陥ってしまうのではないか。「無」と言いつつも、煩悩だらけの実存的生き方、我慾にまみれた相を示しているならば、行っている事柄に矛盾があると言うことになる。本来の「合掌心」や「慈悲」よりも、「悟り」という知的直観へと傾斜して行った結果ではないだろうか。悟りと救済の両面を考える我々としては、やはり、禅からも浄土からも、両側面から学ぶということが必要ではないだろうか。そうするとき「対話」はもうすこし穏やかに進んで行くのではないだろうか。禅的には坐禅という修行により既製の意識の殻を破っていこうとし、浄土的には称名念仏する合掌心をもって自己を越えてゆこうとする。それぞれによさがあるが、先にあげた「天台盛真宗」はまさに、円戒・称名念仏の二門・禅浄双修する念仏宗であるので、関心がある。

こうして、キリスト教と仏教の対話は、現在はまだ、ある意味で混沌とした領域であるが、学問的研究・知的好奇心(貪欲さ)のみに堕することなく、全人的な南無の敬虔を持って行う場合、東方教会の修道性(イエスの祈り)へと近づいてゆくように思うのである。東方教会霊性には、東洋の意識の深層に関する対話のできる「深層領域の実践的な反省」が準備されている。   

瞑想的祈りにより多くの人が、はせ参じることにより、神の美しい輝きを世に照らすことが出来るのであろう。また、キリスト教の日本における文化内開花(インカルチュレイション)となるであろう。
これは、実は日本の文化内開花の問題以上に、普遍的な重要性が秘められている。西欧式キリスト教自身が生き延びるためには、どうしても従来のパラダイムから脱皮しなければならない「時」となっている。カール・ラーナの晩年の名言・予言を思い出そう。「未来のキリスト教は神秘主義なるか、さもなければ生滅となるだろう」と。それには、瞑想ならびに、神秘主義的な祈りの領域を再発見し、そういう霊性を促進させる火急の課題がある。そうした課題に組織・体制・神学は応えるべきである。
結論として、観念的祈りや概念化した考察的祈りに終始することなく、現実に足が着いた祈り(足元を掘るいのり)の普及。意識から無意識への内面降下とは、自己に向き合うことであり、自己の無意識を清めることであり、神を知る道である。これは癒しなども生じる。瞑想的祈りの道場・研修・司牧がなされねばならない。


最も効果的で、敏速な祈りとしての「イエスのみ名を呼ぶ祈り」
瞑想への道、観想への道として「イエスの祈り」は、近道であると言われている。
「イエスのみ名を呼ぶ祈り」の実践がいかに有効であるかは以下とリンクするからである。
←呼吸法とあわせて。禅的な要素である。
            ←念仏称名的に。浄土宗的な人格神信仰の背景で。
            ←初代教会的に。論理的な西洋化される前の古代教会に戻る。
            ←東方教会的に。修徳的・実践的・生活を変容。
以上のような私見に対して、混合主義的であるとかマンダラ的であるとかの印象を持つかもしれない。しかし、内面において垂直降下し意識の底を破って究極へ向かうとどうなるのか。それぞれの宗教経験において、神秘に方向付けられた「求道」の道は、究極において「通底」しているのではないだろか。

最初は、呼吸とともに始めるが、
呼吸が調うと「イエスのみ名」を呼吸に合わせて行う。
さらに絶えず「イエスのみ名」を呼ぶ習慣がつくためには回数を多くせねばならない。
しかし、「主よ、主よ」とたくさん呼べば良い訳でもない。マタイ7の21で戒められているように。
口先で回数をたくさんすることから、「心の祈り」にはいることを目指している。
イエスのみ名を繰り返すこととともに、内在するイエスの意識が伴っていることが重要である。丹田・胎内にイエスが内在している意識とともに、つまり、私の中に現存しておられる「岩」であるイエス・キリストとともに行うのである。こうして聖母マリアとともに「御胎内の御子イエズスも祝せられたもう」と、内在するイエスを感得する体験へと促される。

集中化とゼロ化 
イエスの祈りの本格的な実践では、まず「意識の集中」が行われる。「絶えず祈れ」との勧めに従い、一日中、この祈りを行うために意識を集中する。座して、声を出して、あるいは心臓の鼓動や呼吸と共に、さらに仕事や徒歩中に何百・何千回「イエスの名」を唱える。まず初歩的には、実践するということに精神を集中する。実践中に、絶えず、出てくる雑念を払い、「主のみ名」に意識集中を行う。これは精神的戦い(修行)である。
内観でも、雑念・外観へと流れがちな精神を、三項目を切り口として「自分はどうであるか」という意識集中する。
この精神の戦いによって、世という自己、神に留まっておれない俗なる自己を知らされる。様々なわずらいだらけの自分、我慾にまみれている自分の姿が映し出されてくる。口で唱えていても心が伴っていない、そういう盲目な自己の姿。

それらを、「振り払う」というか、私の指導では「それらの外観を横において」あるいは、「それらを神に預けて」と教えるが、精神の中を「空っぽにし」「空にし」、ただイエスのみ名、神だけに意識を集中すると言う「空化」の方向に向かう。「空化」というときに、禅で言う「空」というよりも、我々の場合、「愛の心を注いで神に向かう」のである。つまり、「脱我」の味わいで「空化」の方向へ向かう。「ゼロ化」という表現を使う。
「イエスのみ名」以外は「ゼロ」となる。あるいは「イエスのみ名」以外は何も無い。こういう努力のさなか、ゼロに近づけば近づくほど、恵みにより意識の暗闇から、愛であり・光である神の現存が現成されてくる。空化・ゼロ化された魂の中に、神の現存が湧き上がって満ちてくる。幼いイエスの聖テレーズの「霊的幼児の道」がそうであった。ゼロ化というのは、議論を経た宗教哲学的な意識論としてよりも、実践的領域(霊的指導)からのある一つの実存的な視点・主張である。(「ゼロ化」とは田中輝義神父の表現で、彼に関する次の予定冊子「アルファもオメガも」(仮称)を参照)

実践のはじめには、イエスを対象化していたが、やがて、イエスは私の中に、私はイエスの中に、イエスと私は一枚に在る、と言うような経験へとむかう・・・。
こうしたイエスの祈りにおける内面深化は、念仏宗における阿弥陀如来に関する把握の相が変化してくるのと、似ている。つまり、最初には、念仏者は阿弥陀如来を対象化して、阿弥陀様にひたすら念仏専修する。念仏三昧に入ってくると、阿弥陀様に祈らされているという。親鸞の表現する境地のように。さらにより一層、内面化された念仏へ深まり、私も阿弥陀様も未分化された状態での念仏となる。これは「脱自」であろうか、「無我」であろうか。一遍上人などにいたると、あれもこれも無くなり、阿弥陀如来の「名号」だけが残る。これらは神秘体験の暫時的発展プロセスである。

補足 意識内の模様について
意識には表層領域と深層領域があること。
意識と無意識。意識は無意識の氷山の一角である。無意識こそ真実な土台。
表層の意識・中間領域・最深層意識領域。
中間域では様々な出来事が生じる。魔境など。夢か幻かお告げか予言、神秘体験か。
(『心の深海の景色』を参照。)

意識の最深層は彼岸から、あるいは、彼岸への窓口であり、いのちの主であるお方からの息吹とエネルギーの出入りする窓である。これは唯識が、意識の最深層である阿頼耶識が究極の真如への窓口であるとの教えと繋がっている。

[閑話休題 頭の休憩のために]
ある人が、老師さまに問うた。どうすれば祈りの達人になれますか、と。
老師は次ぎの話を言って聞かせた。
ある修道者が祈りの修行についていた。彼は深い専心に集中していたため、自分の外で生じていることに決して気を散らさなかった。それほど彼は神と一つになりたかった。しかし、神はその様子を天から横目で眺めるばかりであった。あるときも、彼は荒れ野で瞑想専心していつものように心を神にあげていた。獣がそこにやってきたことも修道者は気付かなかった。獣は舌でペロペロと彼をなめても、彼は決して瞑想をやめなかった。ところが獣がとうとう手で彼の体を強く押し倒したとき、彼はやっと自分が置かれている危険な状態に気付き、あわてて、大声で「神様、助けて!」と叫んだ。神様は、そのとき、やっと彼を助けた。
老師は言う。真実な祈り、切実な祈りこそが大事なので、神と一致しようなんて傲慢な態度はいかがなものかな、と。

未婚の若い女性との対話。
「結婚を望んでいるのか?」「はい。」
「祈っているのか?」「はい。」
「どのように祈っているか?」「神の御心のままに、と祈っています。」
「そんな祈りではだめだ。」「どう祈ればいいのですか?」
「神様、男をくれ!」と祈りなさい。
結婚と新住所を知らせる数年後の年賀状に「神父さま、あの祈りが聞き入れられました」と書き加えられていた。

V 「キリスト者のための内観瞑想」(という「いのり」)
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内観とは、自分自身を知ることである。
自分自身を知ることなしに、神との真実の出会いはない。さもなければ、観念的な知的遊戯である「知」となる。「自己」という現実から遊離しては、現存する真実の神からも遊離する。ところで、自分自身を知るには様々な方法がある。つまり、西欧からの合理的・科学的・心理学的・無神論的方法があり、古くからの東洋の修業的・宗教的・脱我執的・深層的・ナム(絶対者への帰依)の方法がある。われわれは、後者に関心を置く。

仏道は、そもそも「自己を知る」道である。
キリスト教も、本来、内観的であった。イエス自身も四十日間荒れ野で内観してから、神の国の宣教を始めた。パウロも改心の恵みを頂いた後、アラビアの砂漠に退いて、ニ・三年間(ガラタ3の17)沈黙の生活を送っているが、おそらく内観して、自己の分裂振りに向きあっていたのであろう。その後、本格的な宣教と独自の召し出し(パウロ神学)を示している。彼の重要な内面的メッセージは彼自身の内観の結果から記述されている。読者も、パウロの内観に従うことにより、彼のメッセージがわかり、パウロの神体験へと導かれる。

その後、とりわけ古代・初代キリスト教で砂漠の師父たちの文書を見れば、どれほど内観的であったかわかるだろう。その内観的霊性部分を東方教会は受け継いできている。「自分のこころの動きを見守れ」「考えや情動に流されるな」「頭の沈黙を保て」「想像力からも離れよ」などなど師父たちの戒めを参考に。ところがなぜか、キリスト教はギリシア、イタリアなどヨーロッパ化されてゆくに従い、特にローマ帝国の国教化されてゆく過程で、外観的・理性的・合理的・組織的になっていき、神秘性が削減されていった、と指摘されている。

内観することにより、心の底に巣くっている我執の根を見るので、「罪人の祈り」へ招かれる。それは信仰が内面世界の体験へと導かれることである。もっとも大事な祈りは、罪人の謙遜な祈りである。「主よ、憐れみたまえ。キリスト・憐れみたまえ」「キリエ・エレイソン」の祈りである。実際今でもトラピスト修道院を訪問して感じるのは、修道士たちの共同の祈りに参列し「主よ、憐れみを」と、簡潔で神に矢を射るような唱和を印象的に感動するだろう。

内観経験で、神の愛(憐れみ)との出会いの体験が深まる。神が人を愛するのは「憐れみ」という愛である。「憐れみ」とはヘブライ語で「ラハーミム」というが、その意味は、妊娠中の母親の心境としてラハーミム。神の憐れみ(愛)はラハーミムすること。母性的な神の心情の発見。「はらわたの痛みの神学」を参照。内観では特に「母親に対する調べ」を重要視する。無条件の母の愛は、神の憐れみの愛を準備する。「正義の神への信仰」に偏りすぎる理性的信仰、「〜〜するべき」というベキの論理、を是正する。

日本語の「憐れみ」は、聖書のいう「神の愛」との間に、誤解されやすい微妙な表現である。
そこで、私のところでの「内観」「丹田呼吸」の関連でつぎのように伝えている。

〇呼吸するときに意識を丹田へと降ろし、意識の重心、ないしは、中心に据える。
〇やがて、呼吸は丹田を経巡る、吸う息と吐く息になる。
〇そして、意識は丹田に存する「いのちの主」の居所とするように想像するように勧める。
〇あるいは呼吸と共に「イエスのみ名を呼ぶ祈り」を行う場合にも、意識は丹田に集中するようにする。
〇こうした一連の向かうところは、「御胎内の御子イエズスも祝せられたもう」というアヴェ・マリアの祈りで言われているマリアの体感に参入する。つまり、マリアの中に内住するイエスは、マリアの胎内・丹田に内在するのである。胎内は旧約のラハーミム、憐れみと訳されていることと関連している・・・と。
こうしてみると、「呼吸法」と「内観」、仏教では両方あわせて「止観」と呼ぶが、はマリアの霊性の中に入ってゆくものである。

さて、罪人の祈りは謙遜なものである。「義ならざる(ワタシ)を、義とする(神)憐れみの愛」こそが、福音の伝えるところである。ヨハネ・パウロ二世教皇は、『慈しみの神』において、「義」よりも「憐れみ」を本質とする神への信仰を説いた。「我の匂い」の消えた祈りへ向かうには、この罪人の自己へ神の憐れみが来たとの体験が必要である。内観はそういう祈りへと促す。他方、本人は気付いていない場合が多いが、傲慢な祈りもある。知恵と傲慢の因縁(創世記3章の堕罪物語)は根深い。たくさん祈っているのに傲慢であり続けるのは、「知的祈り」に染まってしまっているからであろう。「賢い」からであろう。

「イエスのみ名を呼ぶ祈り」の霊性において信者は内面と向き合う。東方正教会の修道的霊性の土台であるが、正教会の信徒たちもこの祈りで生きる人が多いそうだ。
→仏道とキリスト道の対話は東方教会霊性において交わる箇所を持つ。
意識の内面降下を解き明かす「意識論」において。


さて、私のところでの「内観」は
吉本内観を受け継ぐ中で、私のところでの内観は独特の展開をしてきている。吉本内観は、年代順に、母親、父親・・・身近な人から始まり、三項目を頼りに、自分の態度がどうであったかを調べる。その大衆化に伴い、心理療法=「内観療法」として世間では知れ渡っている。

「キリスト者のため」。多くのクリスチャンは、「教え」と自らの「現実」のギャップのなかで、内観を求めているという「時のしるし」、必要性があった。それで1996年頃からカトリック司祭として面接指導を始める。内観(身調べ)は浄土信仰における不退転の信仰を獲得するためのものであるが、詳しく見るとキリスト教の救いの経綸と「構造的」に同じである。

つまり、深い自己理解=無常観(世のはかなさ)を看破する→
地獄往き必須で、煩悩だらけの自己認識→
阿弥陀如来(法蔵菩薩)の本願→念仏による極楽往生。
ヨハネによる福音理解の構造と同じである。
罪人(暗闇の世)の我々→
彼岸(父から)つかわされた(如来)イエス→
イエスの誓い(本願)・いのちと光をもたらす→
イエスにおける死にいたるまでの自己奉献→
信者の永遠のいのちへの参入。

「仏教とキリスト教の対話」を語る場合、多くは「禅」とキリスト教の対話を考えている。それが対話の限界や困難さとなっているのではないか。しかし、阿弥陀如来という一種の人格神的な如来への信心を教える「浄土信仰」との対話がもっとなされればよいと考えている。

「内観・瞑想」と言うのは、内観の展開には、心理療法に終るのでなく、三ステップ(3H)で展開していることに気付いてもらうために「黙想・瞑想」と加えて呼ぶのである。吉本内観自身が本来的に目指していたように、宗教的な修行として身調べがあり、「癒し・心理療法」としての内観ではなかった。それらは「効果」「結果」であった。
悩んではいるが、傷ついてはいるが、苦しんではいるが、それらを契機として、人間の本来的な求道心を促進させる内観としての価値を見出す。だから私は「内観道」と表現しながらその方向性を示す。人間の本来的な求道心、願望、飢え渇きは、究極に向かうので「内観瞑想」と呼んでいる。

確かに内観によって人生の四苦八苦のために「癒される」べきところは癒される。
しかし、それにより人間として人格的にも成長してゆくべく教育的意味がある。
そして、人間の限界を知り、人生の究極的目的として、いかに神のいのちの中に入ってゆくかという旅の案内である。こういう宇宙的広がりの中での内観瞑想なのである。

三つのH 
元九州産業医科大学教授の本多正昭先生は、健康をあらわすhelth、癒しのheal、全体のwhole、聖性をあらわすholyは、同じ語幹を持つと指摘する。「健康」はこれらの三者とのつながりで、全人間的に捉えなければならない。
さて、先ほど内観の三ステップといったが、これらは相互に複雑に交差しあいながら、展開するが、つぎのように説明できるだろう。

@ 癒し(ヒーリング) 
A 人格成長(ホリスチック) 
B 神との出会い(ホーリー)
癒されたい人は多い。しかし、「傷」も神の中(ホーリー)で見直す場合、聖霊の噴出す「窓口」になる。傷の価値と言うものにも目覚めてよい。アシジのフランチェスコの受けた聖痕の意味。ヨハネ20章の復活者イエスの出現時に、示された十字架上で開かれた傷の秘密。聖なる三が日の霊性、復活大ローソク・五つの聖なる傷の意味。イエスの父なる神への過ぎ越しの場(十字架)として内観で痛ましい過去の傷をいただきなおす。

癒しのために、西洋的科学的方法では原因を追究し、病んでいる部分的な患部を、どうにかしようとする。それはそれでよし。しかし、部分が癒されても全体が死ぬという矛盾もある。他方、東洋医学では体全体(トータルに、ホリスティクに)から部分を見ようとする。全体の活性化の結果、部分も活性化し癒される。西洋的手法は部分的な悪い病気そのものを駆除したがる。しかし、生き方や生活習慣や体質など、全体的に見るのが、ホリスチックという意味だ。内観の手法も同じ見かたをする。癒しだけを問題にしていては、部分的見かたになり、根本的改善にならない。心理療法としての内観療法が、対処療法に対して「根治療法」と呼ばれているゆえんである。ヒーリングもホリスチックな面も、ホーリーも、それぞれ複雑に絡まっているものだ。

本来の内観が、浄土真宗内で信心獲得の修行であったように、キリスト教ではあるが私の内観も本来的な宗教的修行(ホーリー)として捉えている。三項目を切り口にして、年代順に、両親を初め身近な人への自分の態度を調べる。内観の結果、「癒し」などのよき効果が見られて、やがて、内観療法という名がつけられ、こちらのほうが有名になってしまっているが、癒し的効果以上の領域がある。生き方全体と関係している。

内観中に、目前の病気や問題、倫理道徳的問題が出てきても怖がらず、あわてない。それらがあっても、淡々と三項目などを頼りに、時間系列に見ることからはじまるが、慣れてくると垂直系列に、自分の態度はどうであるかを一層深く掘り下げ、客観的に調べてゆく。その作業の中で、自己洞察が深まってくる。最終的には、「我」と「欲」がしっかり根が張っている自己に気付くだろう。それが真実の姿である。他方、自分がどうであっても、大きな手に受け入れられている自分、大きな神の憐れみの中に包まれていることに気付き、感謝できることを目指している。

ありのままの自分を発見←愛されている自己、わがままな自己と向き合うことの両面の認知。
ありのままの自分に、働きかけている神の導き。
ありのままの自分とは、罪や我執や病気やクセなどあってどうしょうもない自己である。
それを受け入れるための葛藤→内観では、同行者の存在、内観者が謙遜の道へ、罪人・病人として深き淵からの叫び。それが、内観での祈り(叫び)である。この祈りは内観瞑想へ至る出発点である。


二種類の「調」ということ
三項目での「調」
内観するときに、過去の客観的事実の記憶想起が必要だ。何も記憶が出てこなければ、ちょうど料理のときに食材が無い場合と同じである。記憶(食材)が思い出されて、それをいかにうまく思索(調理)するか。それは食材を調理するのとおなじように、三項目という切り口で調理・味付けするのである。三項目は、新しい観点から読み直すことでもある。それにより、うまい料理が仕上がる。だから内観は、過去の出来事をおいしく頂くため、絶妙な味付けをする事である。
創世記のヨゼフ物語(37章から50章)で、ヤコブは兄たちから受けた仕打ちも、神の計画のものであったと(45章、50章17以降)再解釈しているように。この物語(客観的出来事)を読むと感動するが、それはヨゼフがよく思索・調理(三項目など)して、神の計らいをよく受け止めていたからである。このように、よい内観すると喜び・感謝・賛美などの感動も深まる。これがうまい料理である。よく「調理」できた料理・内観である。

人間を調える、4つの「調」
祈りも内観も、向かうところは「神を知る」ことである。神に近づけるのは神の恵みによるが、人間側は恵みのときに「調える」必要がある。主の到来に先立ち、でこぼこ道を調えるように。禅で教えているように、体を調え、呼吸を調え、心を調える。さらに、生活を調える。これらの「調える」ことはキリスト者が、メタノイア(回心)と呼ぶことの中味である。聖ベネディクトは、そのために「祈りの学校」として隠世的な共同修道生活を始め、悔い改めの生活を促した。すなわち、決まった秩序ある生活において「祈りと労働」に励み、心身とも調えられ、そして神への賛美という神の業をしてゆく生活形態を開いた。キリスト教的修道生活の父祖と呼ばれるわけである。しかし、これは現代の二つのヤミ、闇と病みという混迷の深い時代にあって、新たな
癒しの共同体としての展開が起こればいいと望んでいる。

禅で「調身・調息・調心」と、よく指導される。体と、呼吸と、心を調えるのが「坐禅」である、と。体(姿勢)を調え、呼吸を調えれば、心も調ってくる。この順序が味噌である。理解から入るのではなくて、体から入る。心(知性も含む)でゴタゴタいわずに、とにかく行じることが先である。私流内観の向かうところとして、四つ目に「調・生活」をも言う。「生活改善」のことである。
祈りは神のいのちのなかに入ってゆくことであるから、人間の側は以上の四つの「調える」ことで準備協力することが必要である。祈りで、心だけで神の中に入っていけるわけではない。脱魂してゆく道ではない。知的遊戯するわけでもない。体も呼吸も日常生活もが伴うのが祈りの道である。そして、祈りは日常生活の変化を促すはずだ。キリスト信者の生活、奉献生活、共同生活の目的もそこにある。

神に向かう回心の旅は、内観が行うように懺悔道である。そしてしかる後、世界と人々への救いを運ぶ菩薩道としての使徒職(ミッション)となるのがふさわしいと思う。そういう福音宣教の道を真剣に考えてよいと思う。


2008年5月17・18日・京都龍安寺・聖ヨゼフ会での講話をもとに、後日、書き改め続けて。
6月23日現在