内観・混迷する時代に求められるもの

混迷からの解脱
今回のテーマに「混迷する時代」とあります。現代世界の混迷というと、私には身に余る領域ですが、一人一人の生き方が混迷しているのではないだろうか、という観点から話します。

比叡山の根本中堂に立つ記念柱に「一隅を照らす」とあります。まずは、一人一人の心の一隅に光が照らされてゆく道をお話します。私が変われば周りも変わる、私が正気になれば周りも正気になる、と考えるからです。大海の水も一滴からです。これはキリスト者たちが内観中に経験する心の体験でもあります。

自分を振り返って観ますと、心の中に「外なる人」の部分と「内なる人」の部分があります。「外向き」「内向き」と表現するとわかりやすいかもしれません。
一方では良いことをしようとする「内なる人」がいて、他方、そのように望んでも反対の良くないことをしてしまう「外なる人」の部分があります。「外なる人」は現象・外の出来事に反応的に振舞ってしまう。また、良いことも悪いことも、結局、私は自分の考えや意志によって行おうとしていて、そこに、うまくいかないという状況、分裂が生じています。古い流行歌に「わかっちゃいるけどやめられない!」という植木等の歌がありましたが、そういう心の状態になります。つまり、私は内と外に分裂している。
それがそのまま、現代世界にも当てはまります。世界の精神意識も分裂している。我と欲で動いている。競争・弱肉強食の価値観で動いています。

どうすれば、そういう分裂した自己を統一できるだろうか。様々な方便があります。しかし、私たちは内観道を歩みますので、内観を深めることによって可能であります。通常の知性や意思、日常的な価値観から、さらに一層深い智慧による人間理解・自己洞察を得るようになるでしょう。

内観するということは闇の深い自分の心の深層へ下っていく、言い換えると、内面降下することであります。そうしますと、いっそう自分はどうしょうも無い「我欲」に支配されて生きている姿を知ります。私は野生化した暴れ牛のようであり、狂気に狂う動物のような姿です。あるいは、それは心の深層から正邪善悪の二元的道徳的ものの捉え方に支配されており、「・・・ベキの論理」で営まれている姿です。外なる自分に出会います。

一方、内観の深めによって、正邪善悪を超えた父母の無限の愛を知ります。生かされ包まれた自分を知ります。これはまた温かい光の体験であります。無量光と表現できるでしょう。ちょうど雨戸で暗く閉められた部屋に隙間から外の光が暗闇に光が差し込んでくるような瞬間であります。アチラからの慈しみと憐れみの手を覚える瞬間です。
この瞬間は、人間の惨め(無常)さ、二元的な分別知的捉え方からの解放であり、我々を越える「生かすいのちの主の霊」の体験であるといえます。
こうした認知、すなわち、狂った牛である私にもかかわらず、温かく大きく包む御者の手の実感、温かく大きないのちに包まれて生かされている実感(理解)です。こうした体験が深ければ深いほど、暴れ牛のような私は素直になって統御されて行きます。自分の努力によってではなしに、徐々に自己統御され調えられていきます。

角度を変えて言うならば、まったく自分を忘れて自分を越えた慈悲の手に「ゆだねる」という道を進むことになります。すなわち「忘我」への道であります。仏道の人の表現では「ナム」、我々はそれを「アーメン」と表現しますが、「合掌心」を携えて、「ゆだねつくす」ことで、忘我するのであります。

つまり、仏道で「無我」「解脱」「涅槃」「真如」などと教える道を、キリスト道では「愛による忘我」という道によって至ろうとします。寝ていても意識し続け、我を考え続けるという自分が、愛するお方・生かすいのちの主へ明け渡す意識集中によって我を忘れ、その中に身を浸すことによる「忘我」の道です。自己をゼロに近づけていくことによる「忘我」であります。自分をアチラの方に任せきる・ゆだねきるように教えるのです。

大きなみ手に運ばれるままに生きることが出来るようになる、ともいえるでしょう。
そのために、身調べ(内観)をします。自己究明します。自分を浄化します。

このような道を親鸞も歩みました。親鸞はどうしょうもない人間の煩悩振りを味わっておりました。内なる人と外なる人の葛藤・分裂を苦々しくよく理解した人でした。そしてひたすら、先生の法然の教える念仏・ナムの道を実践しました。徹底的に阿弥陀如来に自分を明け渡す道を歩みました。それでも、自分のなかに絶えず生じてくる自力の影響のあるのを悲しみました。やがて、念仏を唱えるのは、私が唱えているのではなくて、内在する阿弥陀如来様が唱えさせているといく境地へと深まっていきます。もう私は「忘我」、「私が」という意識は透明になり、あるのは、阿弥陀如来さまだけという境地でしょうか。


白道
吉本伊信先生のもとで内観したとき、屏風に二河白道の絵が貼り付けられておりました。観無量寿経にある「二河白道」たとえを絵に表したものです。三尺の狭い白道が中央にあり、白道の両脇には怒りと嫉妬の二河が延々と続いている。地獄から極楽浄土、此岸から彼岸にいたるこの道が白道で、内観の三項目は白道であり、浄土へ案内していると教えてくれました。無限の光と無限のいのちへの道。病み(闇)から健康・正気への心の内なる旅。混迷から正気への道。私はそのように捉えております。

テレサの「霊魂の城」においても、心の内なる世界へのはじめについて、詳しく述べられておりますが、要点を紹介すると。
@騒々しい外観的世界から、内なる世界へ。自己認識、自己理解。
Aありのままの自分を知り、罪人である自己を知る。煩悩だらけの自己中心的な傲慢な姿の自己認識。内観のことです。
B傲慢さから謙虚さへ。内観者の姿勢、あるいは内観の効果です。
C希望。聖母マリアや聖人たちの応援、善知識による助けを願う。
D叫び・念仏(祈り)を携えて。
こうした道を経て、より受動的な心の世界、瞑想の世界へと導かれます。

こうした道をエディット・シュタイン(1942年アウシュヴィッツ強制収容所で毒殺された殉教聖人)は詩篇で「白道」と表現しました。法座の中に、彼女にとって自分の祈祷席に、とどまり続けて、内なる世界へ下って行く。沈黙と孤独にとどまることにより、魂が浄化されていく。アチラからの光が来る。そういう白道。

「調える」
内観とは。「内を観る」と書きますが、ある人は「内が観る」といいました。含蓄のある表現です。また、「内観は洗心である」という人もいます。「調心」とも表現します。内を観て、心を洗い、心を調える。昔の哲学者は、似たことをラテン語で「Intus legere(出来事を内に取り込み、光りの下で読み直す)」と表現します。先に話した「内なる人」になっていく道でしょう。

「調心」といいましたが「調える」について少し考えて見ましょう。内観という名がつけられるまえには「身調べ」といわれていましたが、そこでも「調べる」とされています。「調べる」目的は「調える」ことであります。「調理」の場合、食材があり、レシピ(案内書)に従い、料理を作る。内観をこれになぞって考えると、客観的事実の記憶想起という食材があり、三項目というレシピでの思索を行い、腹のそこからの感動により料理が出来る。つまり、人格変容が生じる。三項目は一つのレシピであり、うそと盗みなどもある。様々なレシピがある。そのうまい料理、モデルは妙好人である。

調身・調息・調心という言葉がある。姿勢を調え、呼吸を調え、心を調える・・・。四つ目として生活を調えること、生活改善が起こってくる。四つを調える。これらの四つの底に流れる通奏低音は「呼吸」である。内観と呼吸と内観は密接で、両方あわせて「止観」といわれ、調えて行く上で重要です。

吉本先生は脳幹に届くまでの内観をせよ、と申しておられました。深い呼吸に慣れてくると脳幹内のセラトニン神経系によい刺激が生じて、落ち着きや平安感を起こさせます。呼吸も、内観も深まると脳幹に影響を与えます。脳幹に届くと人格変容が生じます。大脳新皮質での内観はまだ浅い内観といえるでしょう。


「内観の進化(深化)」
内観は単純だが、奥が深い(元会長・村木教授)。私もその奥深さに関して「内観から内観黙想、そして内観瞑想へ」と表現しています。癒し(セラピー)としてとしての内観、人生の道としての内観、より深い精神的営みとしての内観的瞑想。内観療法(ヒーリング)から、生き方全体を調える内観道(ホリスチック)、そして内観瞑想(ホーリー)。三段階を意識します。言語学者によると三つとも同じ根(HR)を持っている。(ヒール、ホリスチック、ホーリー)。

第19回内観療法ワークショップ講演(2007年10月28日)の準備原稿。実際の講演は別の内容であった。